喫茶シルベのカフェスペース。
ころころころ。
ころころころ。
白の毛玉が転がる。
ころころころ。
ころころころ。
きゃっきゃと楽しそうな声ももれる。
カウンター席に背を預け、腕を組んで眺める桔梗色の瞳と。
その隣の椅子には、腰をおろして座って眺める橙の瞳。
その二対の瞳が、転がる白の毛玉に視線を投じていた。
「なあ、ラテは何してんだ?」
すばるの問いかけに。
「さあ、ラテはラテだから」
答えにもならない答えを返すつばさ。
ころころころ。
ころころころころ。
ころころころころころ。
あちらにこちらにと、思い思いの起動を描きながら転がる毛玉。
それがつばさの足元付近まで転がってきたとき、その毛玉が顔を上げた。
ぱっちりと目が合ったつばさが。
「どうしたの、ラテ?」
と問えば。
小首を傾げた白イーブイが。
―――カフェはいいの?
と答えるものだから。
そこで、ぴしりとつばさが動きを止めてしまう。
「まさか、忘れちまってたとか……」
半目になって言うすばるに。
まさか、と反論したつばさは、さささっと腰のベルトからボールを手にした。
ボールの突起を一つ押すと、白の光の中から姿を現す小さな影。
それがぶるりと一つ身を震わせ、光を振り払う。
その影がうるりと瞳を潤ませ、つばさを見上げた。
―――ボクのこと、わすれてたの……?
つばさを見上げる瞳が、だんだんと潤んでゆくものだから。
慌ててつばさは茶イーブイを抱き上げて。
「そんなことないよ、ごめんね」
ね、と笑いかけた。
けれども、妙に身を固くした茶イーブイに気が付いて。
彼の視線が自分を通りすぎていることを知る。
彼の視線を追えば、背後ですばるが、よっ、と声をあげて片手を振っていた。
そしたら、ふるふると首を横に振った茶イーブイが、するりとつばさの手をすり抜け、膝上に飛び移る。
彼はそのまま、身を丸くしてうずくまってしまった。
「俺、嫌われた……?」
頬をかいて呟くすばるに。
「ううん。この子、少し人見知りするから」
そっと、茶イーブイの頭を撫でながら。
「少しすれば、慣れてくると思う」
とつばさは答える。
これでも、前と比べればましになった方だ。
きっと茶イーブイの過去と関係しているのだろう。
まだ完全には振り払えていないらしいそれ。
「そっか、んなら仕方ねーな」
すばるの声に、つばさは振り返る。
「今回はいつまでいるの?」
「んー、そーだな……」
すばるはしゃがみ、考える素振りをみせる。
「撮りためた写真の整理と、手記の整理もしてーし」
すばるの傍に白イーブイが近寄る。
ふっと微笑んだすばるが、静かに手を伸ばすと、彼女はふんすふんすと匂いを嗅ぎ始めた。
「ってことは、また本でもだすんだ」
感心を含んだつばさの問いに、まあな、とすばるが頷く。
すばるは留守のことが多く、その理由は長期の旅に出ているため。
旅の目的は手記を記すこと。
こうして度々戻ってきては、書きためた手記の清書や整理他、道中に撮影した写真の整理も行っている。
これでも彼は、数冊の手記本を出しているのだ。
その出版された本は、ここ喫茶シルベの本棚にも置いてあったりする。
「ん、でもまあ。整理とかは建前で」
匂いを嗅いでいた白イーブイは満足したのか、今度はすばるの手に自身の頭を押し付けた。
「ほんとは、ふうのために戻ってきた」
「ふうちゃんの?」
「ああ」
白イーブイの頭を撫でていたすばるの手は、次に彼女の顎下を撫で始めて。
彼女はくすぐったそうな、きゃきゃ、という声をもらした。
「りんとラテを置いていったの、気にしてるみてーだったから」
桔梗色の瞳が、優しく細められた。
「あいつが何よりも、俺を優先しちまうのも分かってたのに。俺が旅に出るって決めちまったから」
ごろりと寝転がった白イーブイの腹を、すばるの手が撫で回す。
「今の時期を逃すと、次は数年後にしか見られねー風景があったから」
それをどーしても見たくて。
そう言う彼は、呆れたような、悲しいような、そんな笑顔を浮かべて。
うりゃうりゃと白イーブイを撫で回す手付きが、何だかとても優しく思えた。
「つーことで、今回はいつまでいんのか決めてねえ」
そこですばるは、つばさに振り向き、にひっと笑った。
「んだから。しばらく一緒にいられんな、つばさ」
「んな!?」
すっと立ち上がるすばるに。
頬を朱に染めるつばさ。
「俺がいねーから、さみしかったんじゃねえの?」
つばさの隣の椅子にすばるが座ると。
つばさの膝上にいた茶イーブイが慌てて飛び降り、起き上がった白イーブイの影に隠れた。
「何、急に……」
ふいっと、すばるから視線をそらすつばさに。
カウンターに頬杖をついたすばるはにやりと笑った。
「別に。ただ、お前変わったなと思ってな」
空いた片手がつばさへ伸び、つばさのサイドテールをすくう。
それがさらりと音をたて、すばるの手からこぼれ落ちた。
「…………!」
身を固くするつばさと、にひひ、と笑うすばる。
しばらくの間、橙と桔梗色は交差していて。
再び、すばるの手がつばさの頬に触れた時だ。
からんころん、と扉のベルが鳴り響いた。
《…………何をしている?》
扉を押しやって入ってきたブラッキーが、訝しげに眉を潜めて問う。
「いんや、何も」
そう答えたのはすばるで。
けれども。
彼の手はつばさの頬に触れたままなのだから、何もないはずはない。
それでも。
それには気付かないふりをして、そうか、とだけブラッキーは返した。
それから、自身のパートナーへ視線を向けて。
その彼女の様子に何かを感じたのか、仄かに彼の輪模様が明滅した。
ブラッキーとつばさ。
その繋がりは深いところにまで及ぶ。
だから、微弱な感情の起伏にも敏感なのだ。
気持ちが浮わつくような、このそわそわとしたものには覚えがある。
再びすばるに視線を戻すと、呆れたような瞳を向けた。
《イチがいたら、殺られてたな》
「かもな」
すばるは、ぱっとつばさから手を放した。
「俺、あいつに嫌われてるみてーだし」
《みてーじゃなくて、嫌われてるんでしょ》
ブラッキーの後ろから入ってきた影に。
ママ!
と声をあげて駆けて行くのは白イーブイで。
隠れ場所を失った茶イーブイが、あちらこちらに視線を動かす。
それを見つけたつばさが、おいで、声をかければ。
彼はたたっと駆けて、つばさの膝上へ飛び乗る。
ひしっとつばさに引っ付くその様。
小さな身体のその必死な姿が、不謹慎だと感じながらも、たまらなく可愛かった。
ゆっくりと彼の背を撫でる。
「さーてと。ふう、行くぞ」
声と共に立ち上がったすばるは、エーフィへと言葉を投げかけた。
「あるば探し、手伝って欲しい」
エーフィは微弱な空気の動きも感じ取れる。
周りの様子を視認しなくとも探るのは、朝飯前というものだ。
だから。
すぐに了承の声が返ってくると思ったのに、実際に返ってきたのは。
《嫌だ》
という短い一言で。
「は?」
というのは思わずもれでた声。
なんで、とすぐに問えば。
《今はりっくんといたいもんっ》
自身の身をブラッキーに寄せて、頬を膨らませる様は、わがままを言う子供の様。
そんなすばるとエーフィの様子を眺めていたつばさは。
彼女に身を寄せられているブラッキーを一目みて、何かを悟ったように立ち上がる。
「私が手伝うから、りん達には留守番頼も」
ね、とすばるの腕を引いて。
「私もイチを探さないといけないし」
ちらりとつばさを見たすばるは、仕方がないかと一つ嘆息する。
「行くか」
とだけ告げて、去り際にエーフィの頭を一撫でしてから、扉を押しやって外へ出ていった。
残されたつばさはブラッキーへ視線を向けると。
「じゃあ、りん。ラテとふうちゃんのことよろしくね」
《カフェは?》
「この子は……」
腕に抱いたままの茶イーブイに視線を向けると。
ひしっとしがみついたままの彼が、静かにつばさを見上げて、ふるふると首を横に振った。
「一緒に連れてくよ」
《そうか》
「今度はラテのこと、きちんと見ててよ」
つんっと、ブラッキーの額を軽く弾く。
ラテ狙われ事件は、まだ記憶に新しい。
《分かってる》
いいから、行け。
そう促す彼に、ひらりと一つ手を振って。
すばるの後を追うべく、つばさも茶イーブイを腕に抱えながら、喫茶シルベをあとにした。