19杯目 追憶 崩れ行く音

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 遠くで音がする。
 それはまるで。
 何かが、崩れて行くような音に。
 とても似ていた。



   *


 
 どっ、と。それは一瞬。
 自分に覆い被さったファイアローの重さを感じた。
 次いで聞こえた。

「――――っ!!」

 耳をつんざくような声。
 それが、彼からもれでた声なのだと。
 理解するのに少し時間を要した。
 まるで悲鳴のような。
 そんな声を、彼から初めて聞いた。
 それから。それから、どうしたのか。
 彼の下から這い出て。
 懐の白銀の存在を確認して。
 覆い被さる、彼を見た。
 見たら。苦しそうな声が。
 絶えず、彼の口からもれていて。
 間もなく、荒くなっている呼吸に気付いた。
 そんな彼の背後。
 そこに、アリアドスの存在を知った。
 もう一匹いたのだ。
 そのアリアドスの牙から垂れた、それ。
 それは、紫の色をして。
 それで、分かってしまった。
 “どくどく”だ。
 慌てて彼を探す。
 探すなんておかしな言い方だ。
 だって、すぐ傍にいるのに。
 彼の身体に触れたら、熱かった。
 熱を持ったそこから、じわじわと。
 じわじわと、彼の身体を蝕む。
 どうしよう、どうしよう。
 思考がぐるぐると回って。
 思考することを、思考から奪われる。
 そんな様子に気付いたのか。
 彼がちらりと、こちらに瞳を向けた。
 うっすらと、細く開けられた瞳。
 そこ宿る光は弱々しくて。
 けれども。
 力強かった。

「……い、ち?」

 名を紡げば。
 くるるっと、弱々しく鳴いて。
 何だか少し。
 苦しそうだけれども、嬉しそうな。
 そんな雰囲気だった。
 でも、すぐに。
 くるるっと、鳴いたそのあとすぐに。
 そのまま、彼のまぶたは落ちてしまった。
 一気に、彼の重さを感じた。
 意識が、ない。
 その事実に気付いて。
 気付いてから、どうした。
 真っ黒になる思考。
 怖かった。
 何が。
 失うのが。
 何を。
 みんなを。
 何の反応も、声もしない。
 握りしめた赤と白の丸いもの。
 無機質な冷たさ。
 それに、無情を感じた。
 抱えた白銀の冷たさに。
 覆い被さった橙に。
 真っ黒になる思考。
 怖かった。
 何が。
 失うのが。
 何を。
 何を、なんだっけ。
 真っ黒になる思考。
 怖かった。
 何が。
 なんだったっけ。
 真っ黒になる思考。
 怖かった。
 何が。
 何だろう。何だろうね。
 あれ。
 怖いって。
 怖いって、さ。





 なんだっけ。






   ◇   ◆   ◇



 ここまでくるのに、何があったのか。
 今となってはあまり覚えていない。
 だから、思い出しようもなかった。
 ただ、あとから聞いた話では。
 あのあとすぐに。
 騒ぎを聞き付けた人々が呼んだそうだ。
 警察を。
 それなりの距離があると思っていたのだが。
 案外、あの場から街道とは。
 それほど距離があったわけではなかったらしい。
 たまたま見かけた人がいたようで。
 街道をそれる自分達を。
 それを不審に感じたその人が、警察を呼んでくれたらしかった。
 警察が駆けつけた頃には。
 あの人間も、二匹のアリアドスも、ニューラも。
 その姿はなく。
 ただ。
 ただ、虚空を見つめる少女がいただけだったと。


 それが、あとから聞いた話。



   *



 壁に背を預けて、つばさはただ見ていた。
 赤く灯るランプを。
 そこにある、治療中、の文字。
 今いるのは、もともとつばさ達が目指していたあの街。
 そこのポケモンセンター。
 ここらでは一番を誇る設備を持つ、ポケモン医療機関。
 ランプを掲げ、閉ざされた重そうな扉。
 その向こうで、ファイアローが治療を受けている。
 言われたのだ。
 ここに勤務する、唯一の医者だと名乗るお姉さんに。
 自称、スマートなお姉さん。
 赤ふちの眼鏡を光らせ、その奥の、灰白の瞳を揺らしながら。
 言われた。
 今夜目覚めなかったら。
 その先は言葉にしなかった。
 それだけで、事の重さを感じた。
 “どくどく”は、“どくばり”や“どくのこな”で受ける毒とは違う。
 それはより強力な毒。猛毒なのだ。
 時間の経過と共に、身体を蝕む度合を増す。
 ファイアローの身体は。
 それに耐えられるか分からない。
 言われたのだ。
 もともと彼の身体には、負荷がかかっていた。
 それは、あの場の話だけでなく。
 少しずつ、少しずつ。
 時間をかけて、負担がかかっていた。
 塵が降り積もるように。
 知らない間にそれは。
 いろんなものを奪っていた。
 それは、猛毒に耐えうるための体力だったり。
 いろんなものを。
 だから、耐えきれるか分からない。
 そう、お姉さんに言われた。
 それでも、お姉さんは最後まで手を尽くすと言ってくれた。
 だから今も、あの扉の向こうで。
 ファイアローの解毒作業が行われている。

「…………イチ」

 名を呼んでは、赤く灯るランプを見つめる。
 それだけを、先程からずっと繰り返す。
 イーブイには先程会ってきた。
 会ってきたと言っても。
 彼もまた、未だに意識はない。
 それでも、命は助かった。
 片目と引き替えに。
 左目は完全に潰れてしまった。
 そう、スマートなお姉さんに言われた。
 ごめんね。
 そう最後に謝られた。
 なぜそうなってしまったのか。
 お姉さんは医者なんでしょ。
 そう、詰め寄られたら楽になれたのだろうか。
 けれども、そんなこと出来ない。
 全部、自分が招いたことなのだから。
 それをお姉さんに押し付けるのは違う。
 今もこうして、ファイアローの処置に全力を尽くしてくれている。
 感謝してこそで。
 自分の中の黒い感情なんて、押し付けるべきではない。
 してはいけない。
 では、これをどうすればいいのか。
 分からない。
 ただ、ぼんやりと。
 赤く灯るランプを。
 治療中の文字を。
 ただ、ぼんやりと。
 眺めているだけ。
 そこに、感傷だとか。
 もう、何もない。
 ただ、ぼんやりと。
 眺めているだけ。
 そんなとき。

「つばさっ!!」

 焦燥を滲ませた声が、名を呼んだ。
 つばさはゆっくり、その方向へ瞳を向ける。
 息をきらして、つばさへ駆けてくる人物を見つけた。
 つばさと同じ金の髮。
 違うとすれば、それが短髪ということ。
 耳も隠すことなく短いそれは、どこか活発な印象を与える。
 その耳元では。
 小太りの丸形ピアスが、無機物な蛍光灯の光を弾く。
 傍まで駆けてきた彼女は、一瞬その瞳を揺らすと。
 つばさが声を発する前に。
 とすっ、と。
 手でつばさの身体を引き寄せた。
 次いで、自身を締め付ける力を、つばさは感じる。

「ああ、よかった……。つばさ、無事だね、怪我はないね」

 つばさを抱いて、肺が空になるほど息を吐き出した彼女に。

「レモ、おばさん……?」

 つばさはそっと名を紡いだ。
 彼女の腕の中で顔を上げると。
 枯草色の瞳が、つばさを見ていた。
 ああ、父の瞳の色とそっくりだ。
 場違いにそう思った。
 彼女は父の妹なのだから、それも当たり前だ。

「警察から連絡が来たときは驚いたけど」

 レモはつばさの両頬に手を添えて。

「怪我がなくてよかったわ」

 指の腹でその頬を撫でた。
 枯草色の瞳に安堵の色を見つけて、つばさは橙の瞳を歪ませた。
 自分が無事なのは。
 自分に怪我がないのは。
 全て、全て。

「…………っ」

 吐息がもれて、橙の瞳が揺れた。
 そしたら。
 くいっと、服の裾を引っ張る何かを感じて、視線を落とす。
 その先にいたのは。
 大丈夫なのか、そう問いかけるようにこちらを見上げる存在。
 黄色い身体に、赤いまんまる頬。
 くりんと丸くて愛らしい瞳が、心配そうに揺れていた。
 レモのパートナーである、ピカチュウだった。

「……ばなな」

 そっとピカチュウの名を紡ぎ、つばさはレモの腕から離れる。
 しゃがみこんで、ピカチュウの頭に手を置く。

「ばななも、つばさのこと心配してたのよ」

 レモの言葉に、彼は一つ頷いた。
 その頭を優しく撫でてやり、手を離すと。
 もっと撫でろと言わんばかりに。
 ピカチュウは小さな手を懸命に伸ばして、つばさの手を引き寄せる。
 それに、くすりと小さく笑い。
 つばさは要望通りに撫でてやるのだが。
 その姿が、ファイアローと重なってみえて。
 彼も撫でられるのが好きで。
 特に、首筋を撫でられるのが好きで。
 撫でる手をとめると。
 もっと撫でてくれないのか、と。
 問うような瞳を向けるのだ。
 ピカチュウを撫でていた手がとまる。
 込み上げてくるこの想いは何なのか。
 ピカチュウが顔を上げ、小首を傾げる。
 つばさの様子を伺うように、その顔を覗きこむ。
 彼はみた。
 橙の瞳からあふれているものに。
 だから、その小さな手で。
 懸命に伸ばして、そっとそれを拭った。

「イチが、イチが目覚めなかったらどうしよ」

 震える唇から、震える声がもれた。
 拭ってくれようとするピカチュウを、咄嗟につばさは抱き締めて。
 ぐえっと、潰れた声が彼から聞こえても。
 それでも、つばさは彼を抱き締めて。

「りんだって、りんだって」

 命は助かった。
 そう言われても。
 イーブイは、片目をその引き替えに失ってしまった。
 それはもしかしたら、命を失うよりも惨くはないだろうか。
 そんな一生の重荷を。
 あの小さな身体に負わせてしまった。
 震えが止まらない。
 止められなかった。
 もう、分からない。
 どうすればよかったのかなんて。
 もう、分からない。



   ◇   ◆   ◇



「落ち着いた?」

 そっと問いかけるレモの言葉に、つばさはこくりと頷いた。
 通路に配された長椅子に腰をかけ、ほっと息を吐き出す。
 手には、飲みほしたカフェラテのペットボトル。
 落ち着けるようにと、先程レモが自動販売機で買ってくれたものだ。

「ばななもごめんね」

 つばさの隣に腰かけるレモ。
 その膝上に座るピカチュウに声をかける。
 先程抱き締めてしまい、危うく絞めてしまうところだった。
 ピカチュウは全くだと言うように頷き、レモは苦笑を浮かべる。

「大丈夫……なんて、無責任なことは言えない。けどね」

 レモはピカチュウの頭を撫でながら続ける。

「こんなときだからこそ、あんたが大丈夫でなきゃだめよ」

「え……」

「皆が気が付いたとき、あんたがそんな顔してたら」

 レモがつばさの方を向いた。

「心配、させちゃうでしょ」

 枯草色の瞳が、ふっと和らいだ。

「だって、りんちゃんもイチちゃんも、あんたを心配させる子達?」

 そんなレモの問いに、つばさは頭を振る。

「違う、そんなことない。りんもイチも、私に心配かけない。むしろ、むしろ……」

 つばさの橙の瞳が揺れた。
 むしろ、こちらの心配してくれる。
 だから、彼らは今。

「だったら、あの子達を信じなさい。つばさにそんな顔、させるわけがないんだから」

 ふわり、と。
 レモはつばさの頭へ手を置き、続ける。

「だから、あんたは大丈夫でいなさい」

 ぽんぽん、と。
 つばさの頭を撫でるレモの手は優しくて。
 あたたかくて。
 つばさの中で、何かが。
 音をたてて弾けたのが分かった。
 橙の瞳からあふれた熱いもの。
 それが、あとからあとから。
 あふれてきて、止められなくて。
 何かを求めて、つばさは手を伸ばす。
 レモにすがり付く。
 レモは一瞬、そんなつばさに目を丸くするのだが。
 そっと彼女を受け入れて。
 嗚咽をもらすその背中に、そっと手をまわした。
 突然のことで脱出の機会を失った電気ネズミが、ぐえっと潰れたのには、気付かないふりをして。
 その背中を撫でた。

「あんたは頑張ったよ、出来ることをした」

 そんなレモの言葉に。

「でも、私、私。りんとイチを、結局傷つけて」

「ん?」

「りんとイチに、取り返しのつかないことした」

 レモの腕の中。
 つばさは声を震わせる。
 取り返しのつかないことをした。
 イーブイには。
 あの小さな身体には重すぎるもの。
 隻眼という、一生の重荷を。
 ファイアローには。
 もしかしたら、もしかしたら。
 そんなことは、考えたくはないけれども。
 最も大切なものを、失わせてしまうかもしれない。
 そう考えるだけで、震えが止まらない。
 彼らが大好きだから。
 その分だけ、大切だから。
 これだけは抑えられない。
 どれだけレモに言葉をもらっても。
 言葉を、もらっても。
 言葉、を。
 そのとき、つばさは目を見開いた。
 言葉の重さを、改めて感じたのだ。
 そう、言葉は重い。
 つばさがイーブイに言った。
 追って、と。
 だから彼は追って、結果的に片目を失った。
 もしかしたら、ファイアローは。
 そんな結果になることを、どこかで分かっていたのかもしれない。
 だからあの時。
 道をふさいだのだろうか。
 もしあの時、歩みを止めていたら。
 違う結果になっていたのだろうか。
 彼の言葉に耳を傾けなかったのは。
 つばさの判断。その結果。
 ファイアローまでも傷つけて。
 もしかしたら、もう、あの笑顔に二度と会えないかもしれない。
 そんな今の現状。
 自分が彼の言葉を聞かなかったから。
 否。それを承知で。
 いや、言葉を変えれば。
 彼が逆らわなかった、とも受け取ることができるではないだろうか。
 そこまで考えて、恐ろしくなった。
 ファイアローの中の自分は、それだけの存在なのだと。
 言葉一つで、光にも、闇にもなる。
 言葉はなんて、重いのだろうか。
 そんな中で、レモが口を開いた。

「確かに、正しくなかったのかもしれない」

 つばさが身を固くする。

「でもね、間違ってもないと思うの」

 その言葉で、つばさは弾かれたように顔を上げた。

「な、なんで?」

「だって、ライちゃんはここに居るもの」

 そう言うと、レモは懐から一つのモンスターボールを取り出してみせた。
 それはとても、見覚えのあるもので。

「結果がでどうであれ、ライちゃんがここに居るってことも、結果の一つ。それを、忘れないで」

 ね、つばさ。
 と、彼女の濡れた頬を、指の腹で拭う。
 だが、つばさは別のことに気が付いて。

「ライ、ラ……」

 動けないでいた。
 橙の瞳が震えだし、見開かれる。

「ん、どうしたの?」

 つばさの様子に、レモが問いかける。
 だが、それに対しての返答はなく。
 ただ、つばさの視線が。
 レモが手にするボールへと、向けられていることにだけ気が付く。

「もしかして、あれの心配?」

 レモの言う、あれ。
 連絡を受け、センターへと駆け込んだ際に。
 スマートなお姉さんの助手的存在である、ハピナスから受け取った。
 ラプラスの入っているボールを。
 そこに添えられた紙に、その内容は書かれていた。

「特殊な方法でプログラムが書き換えられていたから、ボールが開かなかったみたいだけど」

 そこに、つばさはぴくりと反応する。

「プロ、グラム……?」

「そう。でもね、スマートなお姉さんが一瞬で上書き修正してくれたから、もう、大丈夫よ」

 だから、安心して。
 と、レモは返す。
 ああ、そうか。
 と、つばさは納得する。
 だから、呼びかけたあの時。
 彼女は反応を示さなかったのか。
 自らの意思で反応を示さなかったのではなく。
 示せなかった。
 だから、呼びかけを拒んだわけではない。
 そうだったのだ。
 けれども。今、それを知ったところで。
 最早、つばさにはどうでも良かった。
 一つの事実に気が付いてしまった。
 それは、もう。変わることはない。
 つばさはそっとレモの腕から離れ、立ち上がる。

「つばさ?」

 つばさの態度に、違和感を覚えたレモが名を呼んだ。
 背を向けられたレモからは、つばさの表情は分からない。
 再度、名を呼ぶ。
 それでも、もう。
 その声は、つばさには届かなかった。
 否。始めから、届いてはいなかったのかもしれない。
 声は届いても。
 つばさには、響いていなかったのだから。

「私、忘れてた。存在そのものを、忘れてた」

 つばさがぽつりとこぼす言葉。
 あまりに小さな呟きで。
 それがレモに届くこともなく。
 彼女は続けた。

「りんとイチのことしか、考えてなかった」

 それは次第に震えだし。
 震えた声音に耳を傾けていたのは。
 解放されて伸びていた、ピカチュウだけ。
 人間よりも、優れた聴力を持つ彼だからこそ。
 聞き取れた言葉。
 ぴくりと彼の耳が跳ね、つばさを静かに見る。

「私の中でライラは、当たり前の存在じゃなかったんだ」

 無意識に作った小さな拳。
 それが、震える。
 幼少期から傍で見守ってくれていた、彼女という存在。
 そう意味では、確かにつばさの中では当たり前になっていた。
 けれども。
 こうして旅をするようになって。
 自身の“手持ちポケモン”としての彼女の存在は。
 全然、当たり前ではなかった。
 その証拠がこれなのだ。
 ここのセンターに来てから。
 つばさは、イーブイとファイアローのことしか考えていなかった。
 そう、すっかり抜け落ちていたのだ。
 彼女の存在が。
 今回の騒動の中心だったのに。
 よくもまあ、忘れられていたものだと思った。
 ならばもう、いっそのこと。

「私といても、不幸しかないんだから」

 自分と居たから。
 彼女を巻き込み、彼らを傷付けた。
 ならば、自分の中で。
 彼女という存在が“当たり前”になる前に。
 否。
 自分の中で“当たり前”になってしまうくらいの存在ならば。
 もう、いっそのこと。



「いらない。ライラなんて、いらない」



 その言葉は。
 自分でも驚くくらいに。
 あっさりと。
 喉からすべり出た。



   *



 遠くで、何かが。
 崩れて行く音を聞いた。
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