「“ニトロチャージ”っ!!」
滑りでた声に驚いた。
それを受け、ファイアローは炎を纏い始めて。
そのまま地を蹴り上げた。
彼を見つめるつばさの橙の瞳は。
未だに感情で揺れ動く。
尽きることの知らない雫が、つばさの感情によって押し出されて。
けれども、そこに宿る意思は強い。
「りん。もう少しだけ……待ってて……」
白銀の身体を抱き上げ、上着で懐に包み込んだ。
鮮やかだった赤は。
もうすっかり黒くなり始めていて。
白銀の身体を抱き上げたとき。
ぞくりとした。
あまりの冷たさに。
流しすぎたのだ。
時間が経つにつれ、比例するように。
彼から熱を奪っていくそれ。
これ以上はだめだ。早くしないと。
そう思って、少しでもあたたかくなるようにと。
白銀の身体を懐で抱える。
「私に、できること」
ぽつりと呟き、立ち上がる。
先程、ファイアローが瞳を向けた。
そのとき、自分の中で。
何かが弾けたのが分かった。
奥底で燻っていた、暗い感情が弾けた。
気が付いたら、白銀の世界に横たわる白銀の身体を抱き上げていて。
あれほどまでに動かなかった。
その足が動いたのだ。
そのことにも驚いたのに。
先程滑りでた声に、さらに驚いた。
そして、その声を受けた彼は。
それだけで、全てを理解してくれた。
自分でも驚いている。
どこに、こんな原動力が残っていたのか。
ファイアローが炎を纏い、人間へ迫る。
風圧でニューラが弾けたとき。
つばさも地を蹴り上げた。
そして。
「熱っ」
そんな人間の声と。
ぽとり。
落ちる赤と白の丸いもの。
それを目敏く見つけて。
精一杯手を伸ばした。
今度こそ、今度こそ。
視界の端で、ファイアローが糸で縫い止められたのを認める。
けれども、つばさは振り返らない。
彼が作ってくれた突破口。
これを、逃してはならない。
「…………っ」
お願い、届いて。
伸ばした手が、今度こそ。
指先に冷たい無機質な感触。
次いで、確かに握りしめた。
それは丸い形。
よく馴染んだその感触に。
安堵の息をつく。
これで、もう大丈夫。
「ごめんね……」
ぽつりと呟いた言葉は。
何の謝罪か。
それは分からなかった。
たくさんあったと思う。
過信はだめだと言ってくれた。
それを分かっているつもりだった。
けれども、彼に傷を負わせてしまった。
懐で感じる小さな温度に。
心が寒さに震えた。
早くしないと。早くしないと。
だから、お願い。
力を貸して。
「ライラっ!」
彼女の名を紡いで。
手に在る、確かな感触を確かめるように。
その丸を帯びた形の、突起を。
それを押せば、彼女は外へ。
過信はだめだと言った。
それは言外に、自分に頼りすぎてはだめだと。
彼女なりに伝えてくれていたのだと、今は分かる。
それでも今は。
力を貸して欲しい。
早くしないと。
この懐のぬくもりが消えてしまう。
なのに。
「…………っ!どうしてっ!」
何度その突起を押しても。
反応がない。
黙ったままのボールを見つめて。
つばさの顔が歪む。
「なんっ、で……っ」
思い出す言葉が在った。
―――つばさ、いいですか。この先ずっと、私が傍に居られるとも限らないのですよ?
これは、彼女の言葉。
そのあと自分は。
もしかして、父の元に戻りたいのか。
そう問うた。
そのあと彼女は、どう答えただろうか。
私は。
そう答えたあと、事は起きた。
だから、その答えを最後まで聴くことは出来なかった。
けれども。
彼女が答えようとしていたことは。
今のこの状況に繋がるのではないか。
何度押しても、何も答えないボール。
それが。
「…………答えって、ことなの。ねえ、ライラ?」
視界が歪んで。
目尻に再びたまり始めるそれに。
熱いそれに。
もう、うんざりだった。
結局自分は、泣くことしか出来ない。
ただの子供。
瞬けば、頬を伝うそれが。
懐に抱く白銀に吸い込まれた。
それを瞳に映して。
映して、それだけだった。
「何も、出来ない……。出来ることなんて……」
何も、ない。
そう紡ごうとしたとき。
何かに押し倒されて。
「――――っ!」
耳をつんざくような声がした。
*
気が付けば。
考えるよりも先に、身体が動いていた。
*
幹に糸で縫い止められ、もがけばもがくほどに絡み付くそれは。
体力を、少しずつ奪って行く。
いくら気力が潰えないとしても。
それが奪われれば。
もう、動くことも出来なくなる。
おまけに。
それほどの休息を得なかった身体は。
まだ、発達をしきれていない自分の筋肉は。
みしみしと、嫌な音を響かせ始めていた。
負荷をかけすぎたようだ。
無理をするな、とつばさに言われていたのに。
早々に言い付けを破る自分が、少しだけ腹立たしかった。
けれども。
つばさが泣くことは嫌だ。
その想いは確かに在って。
いつも笑っていて欲しい。
そう想うのも確かに在って。
それでも。
つばさが自分のために泣いてくれるのならば。
それは少しだけ。本当に少しだけ。
嬉しいと思ってしまう自分も、確かに在って。
矛盾している、と改めて感じる。
泣いてほしくないから、出来る限りは無理をしないでいようと決めた。
けれども。
この自分のために泣いてくれるのならば。
無理をしたいな、と少しだけ思う。
だから、なのかもしれない。
気が付けば。
考えるよりも先に、身体が動いていた。
きっかけはそう。
つばさが手にしたボールが、何も答えなかったこと。
違和感があった。
あの彼女が。ラプラスが。
今の状況で何も反応をしないというのは、有り得ないと。
だって、自分は知っている。
彼女がつばさのことを、大切にしていることを。
彼女が想う相手は別にいても。
その相手のために、つばさを大切にしていて。
彼女自身も、そんなつばさを想っていて。
彼女が戻ってくれば、この状況も打破出来る。
そう、思っていたのに。
何かあったに違いない。
それを行うとすれば、あの人間しか。
素早く視線を走らせれば、つばさを見下ろす人間がいた。
「万が一に備えて、ボールのプログラムを書きかえて正解だったわけだ」
ふっと、言葉と共に吐き出した息は、安堵のものなのか。
「これでも私、そっち方面も明るいの」
にたりと笑うその顔が、何だかとても腹立たしい。
目元に険が宿る。
気が付けば、警戒音がもれていたようで。
人間がちらりと、こちらへ視線を向けた。
その瞳に、苛立ちの色を見つけたとき。
「アリちゃん」
名を紡ぐ声音に、色は感じなかった。
けれども、確かにその声を受け取ったアリアドスが。
口を開いたと思ったとき。
すでに縫い止められているその上から。
さらに幾重にも糸で縫い止められて。
それは身体の上から。
さらには顔にまで及び。
最早動かせるのは。
「その瞳が気に入らない」
人間が言うように。
最早動かせるのは。
未だに輝きが衰えない。
ぎらぎらと光る瞳だけ。
「でも、それよりも」
こちらを向いていた人間が、背後へと振り返る。
その振り返る途中。
その人間の横顔が。
その口の端が。
少しだけ持ち上がったのを見た。
目を見開いた。
先程から座り込み、微動だにしないつばさ。
その後ろ。後ろから迫る影。
あれは、何か。
それが、口を開いて。
きらりと何かが光を弾いた。
その刹那。
自分の中で、何かがぷつりと切れた。
荒れ狂う感情が、熱となってあふれでる。
自分はどうやら、外部へと熱を伝えやすい体質らしくて。
寒い冬の日など。
つばさが暖をとるために、自分へとその身をくっ付けてくることがある。
それが何よりも嬉しくて、愛しい時間で。
つばさはその体質を、焔のからだ、と呼んだ。
感情が昂るとそれは、熱となって外部へともれだす。
時にそれは、触れてきた他者を火傷させるほどで。
おそらくその要領で。
この身を縫い止めていた糸が、焼ききれたのだろう。
と、あとから思った。
そこから脱したら。
もう、あとは一直線に飛ぶだけで。
それから覚えているのは。
広げた両翼。
それをつばさに覆い被せて。
押し倒した。
そして、片翼の根本に突き刺さったそれ。
あまりの痛みに、声がもれでた。
焼けるような痛みに。
脈打つ度に広がる痛み。
直感する。
これは、猛毒だ。
脈打つ度に、それは身体を蝕む。
しまったな。
それに抗うほどの体力はないようで。
もう、息が浅く、早くなってきた。
押し倒したつばさが、もぞもぞと動いた。
ごめんね、驚かせて。
押し倒したから、少し痛かったかな。
ごめんね。
そう思って、ちらりとつばさを見た。
「……い、ち?」
声と共に、つばさの橙の瞳が揺れた。
ああ、よかった。無事だ。
そっと安堵する。
荒くなる呼吸に、重くなるまぶた。
最期につばさの顔を見たとき。
自分のとても好きな橙の瞳が瞬いて。
そこから、大粒の何かが。
光を弾いてこぼれ落ちた。
つばさの泣く姿は見たくないけど。
自分のために泣いてくれる姿は。
とても好きだと思った。
でも、あまり長くは泣かないでね。
そう思って。
自分は意識を手放した。
最後に、つばさが名を呼んでくれた気がした。