意識は再び遡る。
あの頃のあの日。
あの瞬間へと。
◇ ◆ ◇
白銀世界に舞い散る、花弁。
それは、鮮やかな赤で。
その情景の意味を理解したとき。
世界から、音が消えた。
*
何だか予感がした。
それはとても、嫌な予感で。
無我夢中で駆けた。
気が付いたら拓けた場所に出て。
それからすぐに、後ろへ一歩引いた白銀の身体を見つけた。
その姿に安渡して、声をかけようと思った。
その、刹那だった。
気が付いたのだ。
白銀の身体しか、視界に入ってなかった。
その眼前にいた、ニューラの存在。
あれは、ボールに入ったラプラスを拐っていった存在。
それを刹那的な速さで理解する。
そして、振りかざされた白い爪。
彼女の。つばさの橙の瞳が見開かれた。
振り下ろされた、白い爪。
白銀の世界に舞い散る花弁。
それは、鮮やかな赤で。
その、色の意味すること。
手を伸ばした。
届かなかった。
名を呼んだ。
声がでなかった。
そこに横たわる、白銀の身体。
鮮やかな赤で彩られた白銀。
左目からは、より一層鮮やかな赤で彩られて。
その情景の意味を理解したとき。
世界から、音が消えた。
叫んだ。
声はでなかった。
声になる前に、吐息となって霧散する。
それでも、叫んでいた。
泣いていた。
目からあふれる雫が、邪魔だと思った。
哭いていた。
奥底で叫んで、名を紡いでいた。
そのとき、橙の瞳は映していた。
すでに意識のない様子の白銀に。
決定的な一打を加えようと。
その、鋭く光を弾く白い爪を。
ゆっくりと振りかざす、ニューラの姿を。
それは何としても、阻止しなければ。
その想いは在っても、それだけでつばさの足は動かなかった。
動け。
動け動け動け動け。
どんなに念じても、何かに縛られたように動かない。
がくがくと震える理由は何か。
失うことへの、畏怖。
こんなときにまで、何をしているのか。
自分は弱い。
それは先程痛感した事実。
それがまだ、自分の中で燻っている。
「…………!」
橙の瞳が震える。
振りかざされた白の爪が、ゆっくりと白銀へ下ろされる。
否、橙の瞳には、ゆっくりのように映っていた。
だが、それは結果として振り下ろされることはなかった。
「!?」
気が付いたらニューラは、白銀の世界を転がっていた。
次いでニューラを襲う、ちりちりとした焼ける痛み。
鋭く視線を投じた。
その先に佇むは、ぎらぎらと瞳を煌めかす橙の大鳥。
纏っていた炎が、火の粉となりて霧散した。
「いつの間にファイアローを」
突き飛ばされたニューラが、己の主である人間のもとまで下がる。
そのニューラを一撫でしながら、その人間は口を開いた。
「これを取り返しにでも来たの?」
これ。
と言葉で示したものを、手の中でくるくると回して遊ぶ。
それでも人間の視線は、前に立ちはだかるファイアローではなく。
それを通り越して、さらに赤で飾り付けた白銀でもなく。
その、さらに向こうで。
ただ、静かに佇む少女へと向けられていた。
だから、この言葉もその少女へ向けたもの。
「白銀の毛並なんて珍しいから、きれいに飾ってあげたの」
ただ、無邪気に。
「きれいでしょ」
にこりと頬笑む。
本当にそう思っているようで。
つばさが顔を上げた。
虚ろにその人間を見つめる。
言っている言葉が、理解できない。
ただ分かったのは。
楽しんでいた。
それはもう、純粋に。
そのためだけに、そのためだけに。
彼は傷つけられたのか。
目頭が熱くなる。
情けなかった。自分が。
自分が行かせた。
だから、彼が。彼が。
ああ、なんて無力なのだろうか。
無意識に、服の裾を手で掴む。
「でもね」
人間の声に、視線を向けた。
そこに在ったのは、無感動にこちらへと向けた瞳。
「飽きちゃったから、もう」
その瞳を。
今度は、手の中へと向けて。
「おしまい」
手の中のものを、くるくると弄んで。
「目標も捕捉完了したし。もう、ここには用がない」
冷たい声音に。
思わず、ぶるりと震えた。
「もく、ひょう…?」
思わずこぼれでたつばさの言葉に。
面倒くさそうに視線を向けた人間が頷いた。
「そう、これは」
手の中のものを、つばさに見せ付けて。
それは、赤と白の丸いもの。
「このあと、大金に化ける」
うっとりと笑う顔に。
ぞくりとした。
人間の手の中の。
赤と白の。丸いもの。
それは。
彼女が入ったボール。
「…………っ」
もう、戻らない。
彼女という存在が、消えてしまう。
動け。
動け動け動け動け。
ここにきても動かない、己の足。
情けない。情けない。情けない。情けない。
なぜ、動かない。
どうしてっ。
そう、どこかで叫んだとき。
「――――っ!!」
橙の大鳥が鳴いた。
それはとても鋭くて。
大鳥の感情が迸る。
大鳥の感情が昂り、呼応するように。
その橙の羽毛から、火の粉があふれ始める。
あふれる火の粉は、抑え込めない激情を意味する。
実際大鳥は、怒りに満ちていた。
己の中で荒ぶる感情を自覚する。
ぎらぎらと煌めかせた瞳は。
まるで飢えた獣のような輝きで。
鋭く突き刺す視線は、前方の存在へと向けられていた。
怒っていた。
何に。
つばさをなかせた存在に。
今か今かと、その牙を向ける時を待っていた。
けれども。その大鳥、ファイアローが背後へ視線を投じた。
その先にいたのは、なくことしかできない無力な少女。
それでも彼は、確かに彼女へ瞳を向けた。
怒りで身を焦がしても。
彼はそれに呑まれることはない。
だって、何よりもつばさのためだから。
だから彼は、つばさを見た。
「…………イチ」
名を紡ぐ彼女に、彼は一つ頷く。
つばさの手に、力がこもった。
掴んだ服の裾にしわがよる。
刹那。
橙の瞳が見開かれた。
その瞳に映りこむ、白銀の世界を蹴り上げた黒。
それに目敏く気付いたファイアローは。
振り向き様に、嘴に炎を溜める。
それが前を向く頃には。
溜め込まれた炎が牙をむき、駆け抜けて行く。
ニューラがその炎に呑まれるが、すぐにそこから飛び出す。
しゅうしゅうと音をたてながら。
焦げたにおいに眉をひそめる。
高く跳躍したニューラは、白の爪をたかく振り上げて。
「“ジャドークロー”」
ぽつりと紡がれた言葉。
それに呼応するように、白の爪が黒を纏い始める。
それを認め、ファイアローは目を細めた。
飛翔すれば、難なく避けることが出来る。
けれども。
ちらりと、背後へ視線を向けた。
そこには、白銀の身体を抱き上げたつばさがいて。
橙の瞳からあふれたものが滴り。
白銀の身体へと吸い込まれて行く。
ここで飛翔したら。
爪の餌食になるのは、つばさだ。
動けない。
それを分かった上での攻撃。指示。
ニューラの向こう。
遠くで静観する、人間見た。
こちらに向ける瞳は。
興味など、とうの昔に失っているようなもので。
ただ淡々と、見ている。
ただそれだけ。
再び視線を戻し、上へと向ける。
この身で受け止めようと、脚に力を込めたとき。
「“ニトロチャージ”っ!」
鋭く飛んだ言葉は。
ファイアローの耳に突き刺さる。
その刹那。
ファイアローの身体を炎が包み始め。
急な気温の上昇に、周りの白銀が空気中へと吸い込まれて行く。
そのまま彼は。
剥き出しになった地を蹴り上げた。
たったあれだけで。
彼は理解する。
そのまま、人間へ突っ込めと。
最後に見たつばさは。橙の瞳は。
真っ直ぐ自分を見ていた。
もうそこに、涙はなかった。
これでいい、と彼は思った。
彼は直進する。風を切って。
その風圧で、ニューラを弾く。
それでも止まらない。
そして、人間の眼前へ。
「…………っ!」
予想外の事態に、人間は一瞬動きを止めた。
できた隙はその一瞬。
それでも、それだけあれば充分。
ファイアローが纏った炎の熱さに。
「熱っ」
人間の声がもれでて。
ぽとり。
手にしていたボールを落とす。
それを、ファイアローは待っていた。
「――――っ!!」
纏っていた炎を霧散されたのち、高く高く鳴いた。
感情の昂りを、羽毛からもれでる火の粉が表していた。
落としたものを、咄嗟に拾おうと考えた人間。
だが、その突き刺さるような声に。
動きを止めた。諦めたのだ。
否。そんははずがない。
口端をわずかに持ち上げ、笑う。
次いで、ファイアローが。
火の粉を撒き散らかしながら。
その身体を、近場の幹へと縫い付けられた。
もがけばもがくほどに、絡み付くそれは。
粘着性の強い、糸。
「ナイスアシスト、アリちゃん」
人間へ近寄るは、一匹のアリアドス。
その触覚を動かし、誉められたことへの喜びを表す。
縫い止められたファイアローは、鋭い視線を向ける。
瞳の奥に、ちろちろと灯る暗い炎を隠して。
動きを封じられても。
失せることのない敵意。
敵意以上のそれ。
それが尽きることはないのだ。
何より、この眼前の存在たちは。
つばさをなかせたのだから。
そのことを想えば想うほど、気が狂いそうになる。
だが。
冷静な部分で、彼は彼に告げた。
これでいいのだ、と。
自分の役割は果たした。
あとは。
にやり、彼は一つ笑った。
「ライラっ!」
突如聞こえた少女の声に。
人間は勢いよく振り返る。