17杯目 追憶 炎、動く

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 意識は再び遡る。
 あの頃のあの日。
 あの瞬間へと。



   ◇   ◆   ◇



 白銀世界に舞い散る、花弁。
 それは、鮮やかな赤で。
 その情景の意味を理解したとき。
 世界から、音が消えた。



   *



 何だか予感がした。
 それはとても、嫌な予感で。
 無我夢中で駆けた。
 気が付いたら拓けた場所に出て。
 それからすぐに、後ろへ一歩引いた白銀の身体を見つけた。
 その姿に安渡して、声をかけようと思った。
 その、刹那だった。
 気が付いたのだ。
 白銀の身体しか、視界に入ってなかった。
 その眼前にいた、ニューラの存在。
 あれは、ボールに入ったラプラスを拐っていった存在。
 それを刹那的な速さで理解する。
 そして、振りかざされた白い爪。
 彼女の。つばさの橙の瞳が見開かれた。
 振り下ろされた、白い爪。
 白銀の世界に舞い散る花弁。
 それは、鮮やかな赤で。
 その、色の意味すること。
 手を伸ばした。
 届かなかった。
 名を呼んだ。
 声がでなかった。
 そこに横たわる、白銀の身体。
 鮮やかな赤で彩られた白銀。
 左目からは、より一層鮮やかな赤で彩られて。
 その情景の意味を理解したとき。
 世界から、音が消えた。
 叫んだ。
 声はでなかった。
 声になる前に、吐息となって霧散する。
 それでも、叫んでいた。
 泣いていた。
 目からあふれる雫が、邪魔だと思った。
 哭いていた。
 奥底で叫んで、名を紡いでいた。
 そのとき、橙の瞳は映していた。
 すでに意識のない様子の白銀に。
 決定的な一打を加えようと。
 その、鋭く光を弾く白い爪を。
 ゆっくりと振りかざす、ニューラの姿を。
 それは何としても、阻止しなければ。
 その想いは在っても、それだけでつばさの足は動かなかった。
 動け。
 動け動け動け動け。
 どんなに念じても、何かに縛られたように動かない。
 がくがくと震える理由は何か。
 失うことへの、畏怖。
 こんなときにまで、何をしているのか。
 自分は弱い。
 それは先程痛感した事実。
 それがまだ、自分の中で燻っている。

「…………!」

 橙の瞳が震える。
 振りかざされた白の爪が、ゆっくりと白銀へ下ろされる。
 否、橙の瞳には、ゆっくりのように映っていた。
 だが、それは結果として振り下ろされることはなかった。

「!?」

 気が付いたらニューラは、白銀の世界を転がっていた。
 次いでニューラを襲う、ちりちりとした焼ける痛み。
 鋭く視線を投じた。
 その先に佇むは、ぎらぎらと瞳を煌めかす橙の大鳥。
 纏っていた炎が、火の粉となりて霧散した。

「いつの間にファイアローを」

 突き飛ばされたニューラが、己の主である人間のもとまで下がる。
 そのニューラを一撫でしながら、その人間は口を開いた。

「これを取り返しにでも来たの?」

 これ。
 と言葉で示したものを、手の中でくるくると回して遊ぶ。
 それでも人間の視線は、前に立ちはだかるファイアローではなく。
 それを通り越して、さらに赤で飾り付けた白銀でもなく。
 その、さらに向こうで。
 ただ、静かに佇む少女へと向けられていた。
 だから、この言葉もその少女へ向けたもの。

「白銀の毛並なんて珍しいから、きれいに飾ってあげたの」

 ただ、無邪気に。

「きれいでしょ」

 にこりと頬笑む。
 本当にそう思っているようで。
 つばさが顔を上げた。
 虚ろにその人間を見つめる。
 言っている言葉が、理解できない。
 ただ分かったのは。
 楽しんでいた。
 それはもう、純粋に。
 そのためだけに、そのためだけに。
 彼は傷つけられたのか。
 目頭が熱くなる。
 情けなかった。自分が。
 自分が行かせた。
 だから、彼が。彼が。
 ああ、なんて無力なのだろうか。
 無意識に、服の裾を手で掴む。

「でもね」

 人間の声に、視線を向けた。
 そこに在ったのは、無感動にこちらへと向けた瞳。

「飽きちゃったから、もう」

 その瞳を。
 今度は、手の中へと向けて。

「おしまい」

 手の中のものを、くるくると弄んで。

「目標も捕捉完了したし。もう、ここには用がない」

 冷たい声音に。
 思わず、ぶるりと震えた。

「もく、ひょう…?」

 思わずこぼれでたつばさの言葉に。
 面倒くさそうに視線を向けた人間が頷いた。

「そう、これは」

 手の中のものを、つばさに見せ付けて。
 それは、赤と白の丸いもの。

「このあと、大金に化ける」

 うっとりと笑う顔に。
 ぞくりとした。
 人間の手の中の。
 赤と白の。丸いもの。
 それは。
 彼女が入ったボール。

「…………っ」

 もう、戻らない。
 彼女という存在が、消えてしまう。
 動け。
 動け動け動け動け。
 ここにきても動かない、己の足。
 情けない。情けない。情けない。情けない。
 なぜ、動かない。
 どうしてっ。
 そう、どこかで叫んだとき。

「――――っ!!」

 橙の大鳥が鳴いた。
 それはとても鋭くて。
 大鳥の感情が迸る。
 大鳥の感情が昂り、呼応するように。
 その橙の羽毛から、火の粉があふれ始める。
 あふれる火の粉は、抑え込めない激情を意味する。
 実際大鳥は、怒りに満ちていた。
 己の中で荒ぶる感情を自覚する。
 ぎらぎらと煌めかせた瞳は。
 まるで飢えた獣のような輝きで。
 鋭く突き刺す視線は、前方の存在へと向けられていた。
 怒っていた。
 何に。
 つばさをなかせた存在に。
 今か今かと、その牙を向ける時を待っていた。
 けれども。その大鳥、ファイアローが背後へ視線を投じた。
 その先にいたのは、なくことしかできない無力な少女。
 それでも彼は、確かに彼女へ瞳を向けた。
 怒りで身を焦がしても。
 彼はそれに呑まれることはない。
 だって、何よりもつばさのためだから。
 だから彼は、つばさを見た。

「…………イチ」

 名を紡ぐ彼女に、彼は一つ頷く。
 つばさの手に、力がこもった。
 掴んだ服の裾にしわがよる。
 刹那。
 橙の瞳が見開かれた。
 その瞳に映りこむ、白銀の世界を蹴り上げた黒。
 それに目敏く気付いたファイアローは。
 振り向き様に、嘴に炎を溜める。
 それが前を向く頃には。
 溜め込まれた炎が牙をむき、駆け抜けて行く。
 ニューラがその炎に呑まれるが、すぐにそこから飛び出す。
 しゅうしゅうと音をたてながら。
 焦げたにおいに眉をひそめる。
 高く跳躍したニューラは、白の爪をたかく振り上げて。

「“ジャドークロー”」

 ぽつりと紡がれた言葉。
 それに呼応するように、白の爪が黒を纏い始める。
 それを認め、ファイアローは目を細めた。
 飛翔すれば、難なく避けることが出来る。
 けれども。
 ちらりと、背後へ視線を向けた。
 そこには、白銀の身体を抱き上げたつばさがいて。
 橙の瞳からあふれたものが滴り。
 白銀の身体へと吸い込まれて行く。
 ここで飛翔したら。
 爪の餌食になるのは、つばさだ。
 動けない。
 それを分かった上での攻撃。指示。
 ニューラの向こう。
 遠くで静観する、人間見た。
 こちらに向ける瞳は。
 興味など、とうの昔に失っているようなもので。
 ただ淡々と、見ている。
 ただそれだけ。
 再び視線を戻し、上へと向ける。
 この身で受け止めようと、脚に力を込めたとき。

「“ニトロチャージ”っ!」

 鋭く飛んだ言葉は。
 ファイアローの耳に突き刺さる。
 その刹那。
 ファイアローの身体を炎が包み始め。
 急な気温の上昇に、周りの白銀が空気中へと吸い込まれて行く。
 そのまま彼は。
 剥き出しになった地を蹴り上げた。
 たったあれだけで。
 彼は理解する。
 そのまま、人間へ突っ込めと。
 最後に見たつばさは。橙の瞳は。
 真っ直ぐ自分を見ていた。
 もうそこに、涙はなかった。
 これでいい、と彼は思った。
 彼は直進する。風を切って。
 その風圧で、ニューラを弾く。
 それでも止まらない。
 そして、人間の眼前へ。

「…………っ!」

 予想外の事態に、人間は一瞬動きを止めた。
 できた隙はその一瞬。
 それでも、それだけあれば充分。
 ファイアローが纏った炎の熱さに。

「熱っ」

 人間の声がもれでて。
 ぽとり。
 手にしていたボールを落とす。
 それを、ファイアローは待っていた。

「――――っ!!」

 纏っていた炎を霧散されたのち、高く高く鳴いた。
 感情の昂りを、羽毛からもれでる火の粉が表していた。
 落としたものを、咄嗟に拾おうと考えた人間。
 だが、その突き刺さるような声に。
 動きを止めた。諦めたのだ。
 否。そんははずがない。
 口端をわずかに持ち上げ、笑う。
 次いで、ファイアローが。
 火の粉を撒き散らかしながら。
 その身体を、近場の幹へと縫い付けられた。
 もがけばもがくほどに、絡み付くそれは。
 粘着性の強い、糸。

「ナイスアシスト、アリちゃん」

 人間へ近寄るは、一匹のアリアドス。
 その触覚を動かし、誉められたことへの喜びを表す。
 縫い止められたファイアローは、鋭い視線を向ける。
 瞳の奥に、ちろちろと灯る暗い炎を隠して。
 動きを封じられても。
 失せることのない敵意。
 敵意以上のそれ。
 それが尽きることはないのだ。
 何より、この眼前の存在たちは。
 つばさをなかせたのだから。
 そのことを想えば想うほど、気が狂いそうになる。
 だが。
 冷静な部分で、彼は彼に告げた。
 これでいいのだ、と。
 自分の役割は果たした。
 あとは。
 にやり、彼は一つ笑った。

「ライラっ!」

 突如聞こえた少女の声に。
 人間は勢いよく振り返る。


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