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 乗船所の入り口をくぐった瞬間、ぼくは天使を見た。
 何故そう思ったのか、正直なところよく分からなかった。ただ、それまで経験したこともないくらいの衝撃が、ぼくの心を貫いていったことには間違いがなかった。
 乗船所の待合室に入ってすぐのところに、彼女は立っていた。絶世の美女というわけではないけれど、落ち着いた感じの素敵な人だと思った。深みのある茶髪は短く切りそろえられ、化粧っ気のない肌は白い。白のキャミソールの上からグレーの半袖パーカーを羽織って、丈の短い紺のデニムパンツを穿いていた。背丈はぼくと同じくらいで、目の前に立ったらちょうど目線が合いそうだった。
 ふと、彼女がぼくの方へ顔を向けた。そして、何もできないまま立ちすくんでいた初対面のぼくに、目を細めて微笑んで見せた。
 瞬間、ぼくの体を電流が駆け抜けた。体が、顔が、心臓に近い方から順に熱くなっていった。彼女がぼくから目を離した後も、ぼくは彼女に釘付けで動けないでいた。
「ここは乗船所だよー。受付のお姉さんも教えてくれるけど、今は他の地方へ渡る為の船を造っているんだー……って、サン?どしたの?」
 アローラ地方に引っ越してきたばかりのぼくに街を案内してくれていた少年の言葉が、耳から入ってそのまま逆の耳から出ていく感覚。まともに考えることができないほどに頭は熱を発していた。それは病気ではないけれど、病気に近いものなのかもしれない。足の先から頭の先まで真っ赤に染まる頃には、ぼくは踵を返して走り出していた。
「ちょっと、サン!?どこいくのさー!?」
 彼には申し訳ないけれど、今そこにいたら、ぼくはもうどうしようもなくなってしまったと思う。ぼくの本能がぼくの体を、心を守る為に、全速力で乗船所からぼくを遠ざけた。
 走っているうちに潮の香りを運ぶ朝の風を受けて、火照った体が少しずつ冷めていくのを感じた。同時に熱暴走で飽和していた思考も、徐々に本来の機能を取り戻しつつあった。
 あの人は運命の人だ。そう確信した。単なる激しい思い込みに過ぎないかもしれないけれど、そう思ってしまったのだから仕方がなかった。

「ねー、サン?聞いてる?」
 掛けられた声にハッとして、声のした方に目を向けた。いつの間にか、ぼくはマラサダ(アローラ地方でよく見かける揚げパンのこと)を齧りながら物思いにふけっていたらしかった。薄く粉砂糖の化粧をして、口の中でしつこすぎない油がじゅわりと弾ける。本来ならば甘いはずのマラサダが、この時は随分と味気なく感じていた。
声を掛けてきたのは向かいの席に座った、深緑色の長い髪を後ろで束ねた色黒の少年、ハウ。ぼくがアローラ地方にやってきて、初めて出会った同年代の子だった。午前中に街を案内してくれたのも彼だった。
 ぼくと彼は今、乗船所から歩いて数分のところにあるマラサダショップの窓際の席に向かい合って座っていた。ぼくが乗船所から逃げるように出ていった後、追い付いたハウに手を引かれてやってきたのがこの場所だった。
「サン、何か変だよー」
「そう、かな……」
「そうだよー。何でもない時にぼーっとしちゃってさー」
 心当たりは、一つしかなかった。いつの間に顔に出ていたのかと思いつつ、ハウのまっすぐな瞳を見ていると、隠し事なんてできないような気がしてならなかった。
「実はさ……」
 ぼくは、ぼくの身に起こった出来事を、包み隠さず打ち明けた。……そう、造船所に入ってすぐのところにいた女の子が笑いかけてくれたこと。多分、それからおかしくなったこと。ハウは初めて出会った時から変わらない柔らかい笑顔で、ぼくの話を最後まで聞いてくれた。
「そっか。サンはきっと、その人のことが好きなんだね」
 全てを話し終わった時。ハウは羨むでもなくはやし立てるでもなく、静かに言った。目の前に彼女がいるわけでもないのに、ぼくは恥ずかしくて俯いてしまった。
「うん」
 小さな声で肯定すると、
「じゃあ、伝えなよー」
 間髪入れずにハウが言った。ぼんっ、と頭のどこかで音がしてしまうかと思うくらい、顔が熱くなった。何も言えずに、しかし何か反論しようとしたところで、
「思ってることは口に出さないと。黙ってても伝わらないよー」
というハウの追い打ちに口を噤んでしまう。ハウが言っていることは紛れもなく事実なのだから。
自分では灯せなかった勇気の火が、火照った胸の奥で小さく生まれた。



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