9話

しおりを挟みました
しおりが挟まっています。続きから読む場合はクリックしてください
読了時間目安:21分


 ふらふらだった。息が苦しい。空も晴れていたし、おっちゃんの砂の中で戦いもした。目覚めてからなにも食べてないし、水も飲んでない。灰色の地面はやっぱり歩きづらくて、足の裏の感覚がもうほとんどない。

 けれど、ぐるぐるの内臓には力が満ちている。奥から力が湧き出してくる。ボクは平気だった。

 おっちゃんの言う通り、でかくて、白い建物だった。これだけ建物の材料があったら、ハカセの研究所がいったいいくつ作れるだろう。
 ビョウインは巨大な箱だった。ものすごく大きな、四角い箱。
 けれど「セカイ」の中では、ほんのちっぽけな、粒みたいに見えるんだろう。閉じ込められたら、きっと窮屈なんだろう。

 あの子がどこにいるのかはわからない。けど、きっとこの中のどこかだ。不思議とはっきり確信があった。

 ボクは息を吸い込んだ。おなかがぱんぱんになるまで吸い込んだ。そして、まっすぐ上を向く。
 体の奥から湧き出す力。それを全部ひとつに集めて、おもいきり空へ吐き出した。

 届け。届け。

 水がどこまで上っていけたか、ボクには見ることができなかった。
 吐き出した水が雨のように降る。それを全身であびて、体の表面を潤した。

 尾ビレに絡まるヒモと、ボールの存在を確かめる。
 さあ、行こう。
 ボクは建物へ踏み込んだ。



 ニンゲンが出たり入ったりするのを見て、入り口の場所はすぐにわかった。透明なドアはいくら押してもびくともしなくて困ったけれど、ニンゲンが近づくとさわりもしないで開けてしまった。どんなわざを使ったんだろう。ともかくボクも、その隙に入った。

 不思議な匂いのする場所だった。つんとするような、しみるような。「ブビィ」とケンカしてケガをしたとき、アマノちゃんがつけてくれたキズぐすりの匂いを思い出した。
 ボクがいやがると、アマノちゃんは消毒の匂いだからって言ってた。悪いものが、体に入らないようにするんだよって。
 このなんだか落ち着かない匂いが、ボクを追い出そうとしてるのかもしれない。だとしたらボクは、あの子にとって悪いものなんだろう。少なくともこの場所は、そう言っているんだと思った。

 だからって、こんなところで止まれない。
 内臓に満ちる力が、ボクの足を前に進めた。

「ん? どこのアホが連れ込んだんや。うちで働いとるヤツら以外、勝手にポケモン出したらあかんで」

 聞き覚えのある声がした。振り向くと、白い服を着たニンゲンがいた。さっきハカセと話していた、あの子を連れて行った女のヒトだ。
 女のヒトも、ボクに気が付いたみたいだった。

「あんた、ハカセんとこのポケモンか? なんでこんなとこにおんねん」

 この女のヒトがいるなら、あの子もいるのは間違いない。
 けど、安心してる場合じゃなかった。ここで追い出されたらなんの意味もない。
 ボクは女のヒトを避けて駆け出した。見つかった以上、もたもたできない。急いであの子を探さなきゃ。

「ちょお、待たんかい! 入るな言うとんのがわからんかアホ!」

 女のヒトの声が追いかけてくる。もっと速く走ろうとするけれど、床が滑ってうまくいかない。白くてつるつるした病院の床は、灰色の地面と違ってひんやりしているのはいいけれど、歩くのが苦手なボクに悪条件なのは変わりなかった。そしてさらに悪いことに、追いかけてくるのは女のヒトだけじゃなかった。

『あなた、なにしに来ましたの!?』

 研究所に来ていた「チリーン」だった。ふよふよ宙に浮いているのは「ハネッコ」と同じだけれど、「ハネッコ」とは似ても似つかない剣幕でボクを睨みつける。

『出て行きなさいな! ここはあなたなんかが来ていい場所じゃありませんのよ!』

 どうしてこいつがボクをこんなに目の敵にするのか、それを考えている暇はなかった。また宙に持ち上げられたら、逃げられない。

 ボクは急いで周りを見る。なにか、なにかないか。反撃の手がかり、隠れられる場所、なんでもいい。すると、ぽーんという音がして、近くの壁が開くのが見えた。ニンゲンたちがそこから出てくる。

 ボクはとっさにそこへ駆けこんだ。ニンゲンに踏まれそうになったけど、どうにか足の間を潜って「チリーン」の視線をかわして走る。開いた壁の中は、小さな部屋になっていた。まさか行き止まりだったなんて。ボクが中に入ったのに気づいて、「チリーン」も追ってこようとする。もうだめだ、そう思った。
 けれど「チリーン」は来られなかった。開く壁の前にいた別のニンゲンたちが、一斉に小部屋に入ってきたからだ。ビョウインのポケモンらしい「チリーン」は、ここのニンゲンたちを押し退けることができないのだろう。悔しそうに表情を歪める「チリーン」を前に、壁が再びぴったりと閉じた。

 助かったと思う一方で、ボクは焦ってもいた。こんな狭い部屋に閉じ込められて、どうやってあの子を探せばいいんだ。

 もしや小部屋の中にいないかと、ボクはニンゲンたちの顔を順に見る。背が低くって、メガネをかけて、目がまんまるで、髪が長い。ニンゲンは区別がつけづらいけど、あの子のことはちゃんと覚えていた。あの子はいなかった。
 どうしようかと思っていると、突然小部屋が動き出した。体が浮き上がる感覚で、どうやら上にあがってるらしいとわかる。なんだか目が回って気持ちが悪い。

 車輪のついた椅子に座っているニンゲンのおばあちゃんが、「あらあらあなた、どこからきたの? だれかのお見舞い?」と話しかけてきた。「そういえば、ニョロモが好きな女の子がいたわねえ。あの子に教えたら喜ぶかしら」とそのおばあちゃんが言う。どきりとした。もしかして、それって。
 その話をもっと聞きたかったけど、おばあちゃんはにこにこ笑って、「わたしも、早く元気になって、わたしのポケモンに会いたいわ」とボクの頭に手をのせるだけだった。しわしわでかたいてのひらの感触に、どうしてだか胸の奥がきゅっとした。

 ぽーんと音がして、小部屋が止まった。壁が開いて、外に出られるようになる。ニンゲンたちが出て行った。おばあちゃんも、別のニンゲンに椅子を押されて出て行った。また外のニンゲンが入ってくる前に、ボクも小部屋の外に出る。しかし。

『いらっしゃい。待ってましたわよ』

 頭に響く声がした。少しも歓迎した様子がなかった。
 直後、体がふわりと浮きあがる。抵抗する間もなく持ち上げられて、「チリーン」の目の前まで運ばれた。「チリーン」がボクを睨んでいた。

 待ち伏せされていたなんて。この動く小部屋のことを「チリーン」は知っていたんだろう。警戒しておかなかったことを、心の底から後悔した。

『きちんと申し上げましたのに。まだあの子を苦しめる気ですの?』

 透き通る声を「チリーン」が響かせる。言葉は静かでも、ものすごい怒りを含んでいた。

『倒れているのが見つかったとき、あの子は危険な状態でしたの。ハカセが知らせてくださって、ワタシたちがすぐに駆けつけなければ。持って行ったくすりと、ワタシの癒しの力が無ければ。あのまま高熱で、取り返しがつかなかったかもしれませんのよ』

 山で倒れたときの、真っ赤な顔を思い出す。苦しそうな呼吸を、おでこの熱さを思い出す。

『それでも、あなたはわかりませんの? あの子に会うべきだと思いますの?』

 頭に響いてくる声は、耳を閉ざそうとしても意味がない。容赦なく頭の中を反響していく。だからこそ、言いたいことがよくわかった。

 きっと「チリーン」の言うことは正しいんだろう。あの子にとって、旅も「セカイ」も過酷なんだ。他のニンゲンが旅するよりも、無事に帰れない可能性がずっと高い。体がもっとよくなるとして、それがいつなのかわからない。よくなるっていう約束もない。

 ボクは残酷なことをしているのかもしれない。初めて会った時の、うれしそうな顔。ボクが会いに行くのをやめれば、あの子はもう無茶をせず、静かに暮らしていくのかもしれない。
 決められた通りに。望まれた通りに。

 本当に?

『言ってたよね。ありもしない希望を、みせるなって』

 ボクは知っている。あの子のことを。「チリーン」やビョウインのヒトに比べたら、ほんの少しなのかもしれない。だけど。

『あの子は、自分でここを抜け出したんだ。聞いてもいないのに、楽しそうに自分のことを話してたんだ。頼んでもないのに、水筒を投げてボクを助けようとしたんだ。熱を出して倒れてるくせに、旅に出たい、トレーナーになりたいって泣いてたんだ』

 間違っているのかもしれない。ばかなことを言ってるのかもしれない。でも。それでも。

『ほんとに、ありもしないって思うの? できないって決めて、あの子の「セカイ」を奪っていいの?』

 それがあの子のためだっていうなら。
 ボクは絶対に認めない。

『なにを、勝手なことばっかり。あなたがなにを知っていますの。あなたがなにをわかっていますの。あの子は、あの子は』

 きっと、なにかが正しかったり、間違ってたりするわけじゃない。そういうことじゃなくて、ただ。

『ごめんね。要するにボクは、あの子と旅がしたいだけなんだ』

 なっ、と「チリーン」が言葉に詰まる。「チリーン」の気持ちはわからなかった。怒っていて、悲しんでいて、あきらめていて、苦しんでいた。ボクの体を浮かせる力が、少しだけ弱まっている気がした。

 今なら、抜けられる。

 ボクは体の水分に、吸い込んだ空気を送り込む。はっとして「チリーン」が避けようとする前に、ボクはありったけのあわを吐き出した。あわは「チリーン」にぶつかってはじけて、ボクはすとんと床に落っこちた。
 すぐにボクは駆け出した。「チリーン」の方は振り返らなかった。

『待ち、なさい……っ! 待てえっ!』

 頭の中に叫ぶ声が響いた。それでもボクは振り返らない。あの子を探す。それだけを考えようとした。

 直後に、背中に圧力を感じた。ものすごい振動が追ってきて、ボクの体を吹き飛ばす。それが「チリーン」の鳴き声だと気づくのに、少し時間がかかった。建物中に反響するような、耳を割るような悲鳴だった。

 ボクが転がった床の近くに、銀色の台車を押すポケモンがいた。丸くて大きくて、おなかにタマゴを抱えていた。

「らっきー」

 そのポケモンは、にっこりと笑った。そしてどこに持っていたのか、大量のタマゴを取り出した。嫌な予感がしてボクは逃げる。そのすぐ後を、どかんどかんという轟音と爆風が追いかけてきた。

 さっきの「チリーン」の大声は、よくないことを知らせるためのものだったんだろう。逃げた先でまた同じポケモンが現れて、にっこりとタマゴばくだんをばらまく。
 幸いそのポケモンの足は速くなかった。けれど逃げた先々で現れては、問答無用でばくだんを投げられる。爆風で余計に体は乾くし、タマゴの破片が背中にも足の裏にも刺さっていた。

 これじゃあの子を探せない。一度どこかに身を隠さなきゃ。
 通路の先に横道があった。逃げ込もうとすると、そこにあったのは階段だった。

 ボクは階段というものが苦手だ。研究所にもあったけど、ニンゲンに合わせて作られた段差はボクの足じゃ届かなくて、跳ねて上り下りするしかない。けれど一段ごとの幅が狭くて、ちょっと踏み外すと一気に転がり落ちてしまう。

 どうせ落っこちるなら、下りの階段から逃げた方がいい。そう思ったら、下の階から白い服のニンゲンたちがのぼってきていた。あの女のヒトもいる。ボクと目が合うと、すごい形相で迫ってきた。
 後ろの通路からは丸いポケモンたちが来る。「チリーン」も追いついてくるだろう。階段を上るしか道はなかった。

 一段ずつ跳ねては間に合わない。いちかばちか、ボクは体に残った水分を集中させる。丸いポケモンが来る。ボクは力の限りジャンプして、丸いポケモンに向けて水を吐き出した。

 作戦は成功だった。反動でボクは一気に階段を飛び越える。そのまま背中を壁にぶつけた。頭がくらくらして、危うく階段に落ちそうになって慌てて踏ん張る。

 階段の下に丸いポケモンたちが群がって、白い服のニンゲンたちがそれを押し退けようとしていた。のんびりしている暇はない。

 ここは階段のてっぺんのようで、先に道は続いていない。だけどすぐ近くにドアがあった。幸い少し開いていて、風が入り込んでいた。ボクは迷わず、金属でできたその重いドアをぐいぐい押して外へ出た。

 そこはつるつるの床じゃなかった。ざらざらしていて、町の灰色の地面に近い。やけに明るいと思ったら、そこは建物の外だった。
 建物を上ってきたはずなのに、どうしてこんなところに外があるんだろう。見回してみると、ざらざらの床はしばらく先で途切れていた。金属らしい細い柵が見える。

「追い詰めたでえ」

 白い服のニンゲンたちがドアから出てきた。ざらざらの床は通路より広いけど、それだけだった。出てきたドア以外になにもない。

「ずいぶんと大騒ぎしてくれたやないか。チリーンとラッキーも後で叱ったる。ここをどこやと思てんねん」

 ニンゲンたちが迫ってくる。逃げ場も隠れ場所もどこにもない。戦おうにも、水を吐き出す力ももうない。からからの体はふらふらだ。息が苦しい。

「観念して、おとなしくしいや」

 負けるもんか。
 あきらめるもんか。
 こうなったらもう、干からびるまで戦ってやる。
 そう思ったときだった

「まっ……、待ってっ!」

 知っている声だった。
 うれしそうに笑った声も。
 悔しくって泣いてる声も。
 ボクが知っている声だった。

「シイ、あんた」

 白い服のヒトが驚いていた。その顔はすぐ怒りに変わる。

「なにしとんねん! 寝とけ言うたやろ、部屋戻らんかい!」
「イヤや。だって、だって」

 白い服のヒトが支えようとするのを、手で押し退けて。
 覚束ない足で、あの子が立っていた。裸足の足が汚れていた。
 息が荒かった。赤いような青白いような、ひどい顔色だった。
 それでも、大きなまるい目で、まっすぐボクを見つめていた。

「どうして、来て、くれたん?」

 途切れ途切れに、あの子が言った。言葉の間に息が漏れていた。

「聞いたやろ、あたしのこと。知っとるんやろ。なのに、なのにっ」

 鼻をすする音が混じった。声がかすれた。

「あたしとおったら、キミまで、旅がダメになるのに。次が、いつかわからないのに。また、ダメになるかも、しれんのにっ……!」

 ぽた、ぽたと。頬を伝う涙が落ちて、裸足の足を濡らしていた。

 ああ、よかった。
 いつか、だなんて。
 やっぱりあきらめてないんじゃないか。

 尾ビレに絡まるヒモが緩んでいた。そうなることを望んでたみたいに。
 ボクはそれを尾ビレでくるんだ。

 あの子は、手の甲で目を拭っていた。あとからあとからあふれる涙を、なんどもなんども拭っていた。

 さあ、いつまで泣いているんだ。
 ボクはそれを、思い切りあの子に投げ返す。

「へっ……? いたっ!」

 ぽかんと目を丸くしたあの子の顔に、きれいにボールが命中した。涙の粒が光るのが見えた。跳ね返ったボールを、よたよたとあの子がキャッチする。

 これが、答えだ。
 ボクの答え。

 あの子がボールを、大事そうに両手で包む。またぼろぼろと涙がこぼれた。
 なんだよ、泣き虫。これじゃ「ブビィ」の方がまだましじゃないか。ボクはなんだかおかしかった。

『どうしてですの』

 頭の底で、震えるような声がした。
 怒ってるような。悲しいような。あきらめるような。苦しむような。ものすごい顔をした「チリーン」が、ふよふよとよろけるように浮いていた。

『あなたなんかに、どうして……っ!』

「チリーン」がその目を見開いた。ボクの体が浮き上がる。ぞっとした。ものすごく熱くて、寒くて、冷たい。
 がくんと体が揺れた気がして、ボクは宙に投げ出された。上も下もわからなくなる。空とざらざらの床が代わる代わる見えて。あの子のまんまるな目が見えて。気づくとそこは空だった。下に床がなくなっていた。

 体が落ちていくのがわかる。
 空がみるみる遠ざかっていく。
 ああ、せっかくここまできたのに。
 やっとあの子に、答えが言えたのに。

 やっぱり、旅に出ておけばよかったかな。

 でも、いいんだ。
 不思議と、後悔はなにも——

「ないわけ、あるかあっ!」

 目の前にあの子の顔があった。
 そんなわけがない。だって、そんな。
 あの子の冷たい手が、ボクにふれた。ぎゅうっと強く抱き寄せられた。

「いろんなとこ行くんや! 町も山も森も海も! いっしょに、たくさん行くんやろ!」

 落ちていく。抱きしめられたまま。
 あの子の手は冷たいはずなのに。
 なんだか、へんだな。すごくあったかい。

 ボクたちはいっしょに落ちていた。
 永遠にも思えた一瞬。時間が止まるみたいだった。
 そしてその時間は、いきなり終わった。

『「ニョロモ」おおおおっ!』

 よく知っている声といっしょに、下からなにかが突き上げて来た。
 痛くなかった。柔らかくって、ざらざらしていた。それがボクたちを受け止めていた。

「あ、あれ……? わああっ!?」

 砂だった。噴水みたいに吹き上がる砂が、ボクたちを持ち上げている。ぐんぐん上って、空に戻っていく。目が回りそうだった。
 この砂は、よく知っている。くしゃみをすると背中から噴き出してくるあの砂だ。いつもなら避けているその砂に、ボクたちは助けられていた。

「わああっ! ねえ、見て!」

 あの子の悲鳴が、歓声に変わった。見てと言われても。ボクはもぞもぞとあの子の腕の中で体の向きを変える。息苦しい。

 ぷは、と顔を出して、そして。

 あの子の輝くような顔が、目の前に見えた。メガネとまんまるの目はいっぱいに開いて、その先に見るものを映していた。その色に思わずどきっとした。ボクはあの子の視線を追う。

 まっすぐ先に、青がみえた。あの子の瞳が映したのと同じ、深く透き通る青だった。あまりにも大きくて、なんだかちょっと怖かった。まるで飲み込まれてしまいそうだ。
 青はその先で赤や紫になりかけて、どこまでもどこまでも続いていた。きらきらと輝いて、果てなんてどこにも見えなかった。

「海、なんやね。すごく、きれい」

 ほんとうに、信じられないくらいきれいだった。広くて、不思議で、すごかった。見えるもの全部が水だった。とても泳ぎきれないだろう。海と空に境目はなかった。ずうっと先で繋がってとけて、どこまでも「セカイ」は続いていた。

 ひゅう、と冷たい風が来た。不思議な匂いのする風だった。ずっとよく知っていたような。それでもやっぱり初めてのような。
 風は冷たくて寒かった。ぱたぱたと長い髪が揺れて、くしゅん、とあの子がくしゃみをした。おっちゃんのくしゃみとはぜんぜん違う。不思議な風の匂いと混じって、あの子の髪の匂いもした。
 深い深いきらきらが、ボクたちの体にしみこんでいた。わくわくと胸が高鳴るのがわかる。ぐるぐるの内臓に、今まででいちばん強い力が満ちていた。

『いやあ、すまん、すまんなあ』

 のんびりした声が、ずっと下から聞こえてきた。

『つい、勢いがつき過ぎてしまったあ。降ろすから、おとなしくしとれよお』

 さらさらと湧き出してはこぼれる砂が、ゆっくりと勢いを弱めはじめた。少しずつ空が遠のいていく。
 ボクたちはまっすぐ「セカイ」を見つめた。それが見えなくなるぎりぎりまで、夢中で青を追いかけていた。

 ふと、あの子がボクをみた。「えへへ」とうれしそうに笑う。
 ボクもくるりと向きを変えて、あの子の顔をまっすぐみた。染まりはじめた空を映してか、頬がなんだか赤くなっている。さっきまでの顔色は、すっかりよくなってるようにみえた。

「ねえ、えっと、ニョロモ、これ」

 あの子がなんだか緊張しながら、首に提げたボールを示す。

 その意味をちょっと考えて、すぐにわかった。

 ボクは頷いた。

 あの子も、ぱっと笑って頷いた。

 あの子が、ボールを差し出して。

 ボクの頭が、それにふれた。

 吸い込まれていく瞬間、照れくさそうな、すごくうれしそうな、あの子の——シイの顔が見えた気がした。

 そのまんまるに収まって、ボクはあの子の手の中にいた。
 冷たいはずのてのひらは、なんだか不思議とあったかかった。

「へへ。よろしくね、ニョロモ。ううん、キミの『ナマエ』は————」




読了報告

 この作品を読了した記録ができるとともに、作者に読了したことを匿名で伝えます。

 ログインすると読了報告できます。

感想フォーム

 ログインすると感想を書くことができます。

感想