眼前に立ちはだかる巨大な門――海に面した『拠点』と『最果ての地』を繋ぐ、唯一の出入口。
「お帰りー! そのリオルの背に乗ってる子は?」
『拠点』の防衛班長、マグマラシの明るい声が、頭上の物見やぐらから聞こえてくる。
「探索中に見つけた。遭難者らしい」
ジャローダの説明――眉をひそめるマグマラシ。
「何で、『ここ』にオレ達以外のポケモンがいるのさ?」
「説明は後だ。早くこの子を温かい場所に置いてやらないと」
ジャローダ隊長の言う通りだ。
背中を通じて感じるピカチュウの体温は、氷みたいに冷たかった。
きっと、ずっと誰にも気づかれないまま雪の中で眠っていたのだろう。
衰弱した身体で、地面を覆う雪に熱を奪われて。
「早く開けてくれー! 寒くてシャーベットになっちまうぜ!」
ニドリーノが急かす。
「? マトマドリンクを落としたのか?」
マトマドリンクは、寒冷地では必ずポーチに入れておく、身体を温める飲み物だ。
「コイツ、美味しい美味しいって言って後先考えずゴクゴク飲んじゃったの。自業自得ね」
ニド姉の返答。
余計なこと言うなっての、とその弟が口をとがらせた。
門が開く。
ギシギシと不安な音を立てながら、積もる白雪を押しのけていった。
開ききった門の向こうに立つポケモン――自分の背丈と同じくらいに大きな、キバの生えた角。
「治療が必要なポケモンは?」
看護長、クチートの上から目線な口調。
「このピカチュウだ。リオル、ニドリーノ、オマエ達はどうだ?」
ニド先輩がニヤリと笑った。
「オレは大丈夫だ。医務室より先に、休憩所に行ってモーモーホットミルクを飲みてえよ」
「ボクも大丈夫。攻撃されたけど、大したケガじゃない」
ゴーリキーのパンチをガードした両腕に、ジンジンした痛みと熱がまだ残っていたけど、治療を受けるほどのダメージとは思わなかった。
「ダメよ。見たところ、腕をかなり痛めているみたいじゃない。『ケガがあっては戦は出来ぬ』よ」
クチート独特のアレンジを加えられた『ことわざ』。
間違えて覚えているのか、わざと外しているのかはよくわからない。
「命令よ。そのピカチュウと一緒についてきなさい」
有無を言わせぬ態度。
通称『医務室の王女さま』がきびすを返し、どこかへ歩いていく。
「ボクも、モーモーホットミルク飲みたかったんだけどな」
「あとでオレが持ってってやるよ」
待ってろよ、と言ってニドリーノが赤いテント――休憩所へ歩いていく。
ニドリーナは今回の収集品を持って港へ。
前人未踏の『最果ての地』で得られた資源、アイテム、情報は、ここを通じて世界各地に拡散されていく。
ジャローダ隊長は物見やぐらを登ってマグマラシと話し合い――おそらく『氷像』関連。
残ったボクはピカチュウを担いだまま、クチートの背中を追う。
『拠点』に建てられた数多くのテント。
その中の1つ、大きな緑のテントが医務室だ。
医務室のテントに1歩足を踏み入れると、暖かい空気が一気に身体を包んだ。
余りに気持ちよくて、その場に寝転がってしまいたい衝動に駆られる――そんなことをすると、クチートに噛みつかれるだろうけど。
ピカチュウも暖気に心地よさを感じたのか、ボクの背中でモゾモゾと動いた。
「さて、まずはそのピカチュウをベッドに寝かせてちょうだい」
クチートがテントの一角、円状に置かれたベッドを指さす。
ベッドのサークルの中央では、たき火がユラユラと揺れている。
ボクとピカチュウを結ぶ縄を解き、彼女をベッドの1つに横たえる。
クチートの軽い診察――わらのベッドに横になる身体をざっと検める。
「……『しもやけ』だらけだけど、どれも軽度ね。早めに保護できたのが幸いしたのかしら」
「つまり、ボク達が見つける少し前に、この子は遭難した?」
「当たり前でしょう。道具も食料も持たず氷原に放り出されたら、氷タイプでもない限り一晩で千年先まで冷凍保存よ」
言われてみればそうだ。
ボク達『調査隊』のポケモンは、ほとんどが寒さに対して耐性を持っていない。
体温を上昇させる『マトマドリンク』で凍傷や筋肉の縮小を防いでいるけど、それがなければ30分だってあんな極寒の地にはいられないだろう。
「でも、だとすると気になることがあるね」
ボクの言葉にクチートがうなずく。
「ええ。遭難して間もないと言うことは、どこかに暖を取れる場所があると言うこと」
「つ、つまり、アタチ達以外にも、こ、ここにポケモンがいるの?」
突然声が聞こえて、ワッ、とボクは小さく叫んだ。
円状に並ぶベッド――その1つに、ポケモンが寝ていたようだ。
紫の身体、宝石のような瞳。
腕に包帯。
また壁をよじ登ろうとして滑り落ちたのだろうか。
研究者にして冒険家のヤミラミが興味津々と言った様子でこちらを見つめていた――彼女のしゃべり方は『これ』が平常だ。
「まだ可能性の話だけどね。もし本当なら世紀の発見ってやつだよ。『命息吹かぬ最果ての地に、まさかの原住民!?』ってね」
クチートに腕を掴まれる。
「そこのピカチュウはしばらく安静で問題ないわ。次はアンタよ」
視診、触診――『医務室の王女さま』の正確な診断。
「毛皮で分かりづらいけど、腕が相当腫れてるわよ。落石でも受け止めたの?」
「化け物に襲われたんだ。キッチリガードしたつもりなんだけど……」
「ば、化け物って、な、なんのこと?」
ヤミラミが身を乗り出す。
未知の存在は、宝石に並ぶ彼女の大好物だ。
「動く氷の像がいたんだ。どうやって動いてるのかは分からないけど、かなり強いよ」
へええ、とまだ見ぬ異形の姿を想像して嘆息するヤミラミ。
おどおどしたしゃべり方の割りに、他の探検家と遜色ないくらいアクティブな性格だ。
クチートが腕の診断を終え、治療器具一式を持ってくる。
「まずは血抜きね。麻酔をするから目をつぶってて」
医務室の垂れ幕をくぐって、ニドリーノが入ってきた。
「ようリオル! モーモーホットミルク持ってきてやったぜ」
軽いものとはいえ、手術を終えたばかりの手だ。
何かを持ったりしていいのだろうか。
ボクは、ピカチュウの手足に軟膏を塗るクチートを見る。
視線に気づいた彼女はボクの心中を察したらしく、不敵に笑った。
「ふふん、アタシを誰だと思ってるの。アンタの腕はもう万全よ。今からでも探検に戻っていいくらいにね」
元から身体が丈夫だからってのもあるんだろうけど、とクチートは付け加えた。
さすが『王女さま』――とは、さすがに言わない。
彼女はそのあだ名をとにかく嫌っていた。
医務室は実質、クチート1匹で切り盛りされているようなもので、『医務室の王女さま』というのが嫌味に聞こえるのだ。
……正直な話、嫌味でそのあだ名を使っているポケモンが大半だ。
「ほらよ」
ニドリーノがホットミルクをボクに差し出す。
「ありがとう、先輩」
お礼を言って、ありがたく受け取る。
本当は、『拠点』に戻ったばかりの、身体がまだ冷えているときに飲みたかったけど。
でも、一口飲むと口いっぱいに甘味が広がって、そんな考えはどこかへ吹き飛んだ。
「クチート。その子は大丈夫なのか?」
ニドリーノがピカチュウを見ながら言う。
「大丈夫よ。呼吸は安定してるし、しもやけにも薬を塗ってあげてる。でも……」
「でも?」
「体温が上がらないの。焚き火が近くにあるのに、身体が温まらないのよ」
ピカチュウの身体に前足を近づけるニドリーノ。
触れた瞬間、ひぁっ、と高い声を上げて彼は飛び上がった。
「ホントだ! 雪だるまみてえに冷てえ!」
ボクもピカチュウに触れてみる。
確かに、このテントに入る前と体温は大して変わっていないようだ。
「どう、どうなってるの、この子の身体? き、気になる……」
ヤミラミがピカチュウを凝視する。
ニドリーノ、クチート、ヤミラミ、そしてボク。
医務室にいるポケモン皆が、ピカチュウ1匹に注目していた。
「……ん」
くぐもった声。
「! おい」
ニドリーノの声にクチートがうなずく。
「どうやら、目を覚ましたようね」
ピカチュウが、ゆっくりとまぶたを開く。
黒く濡れた瞳と、目が合った。
「……!」
その眼の黒の深さに、思わず視線をそらしてしまった。
ピカチュウが周りの目に気が付く。
「!?」
驚いたらしく、小さく悲鳴を上げて後ずさる。
背後のたき火が背を舐め、アチチ、とうめいた。
「ア、アチチ! アチチ、だって!」
「言葉はアタシ達と同じようね。それとも偶然、同音同義の言葉があるだけかしら?」
小声で話し合うボク達の頭脳担当。
「んなもん、聞いた方が早いだろが」
ずかずかとピカチュウに近づく力技担当。
身を固める黄色い体に、
「オメエ、言葉分かるか」
単刀直入な質問。
ピカチュウは困ったように首をかしげる。
「だから、オレ達の言ってる言葉が分かるか?」
何も言わない。
首をまたかしげる。
言葉が分からないというより、このポケモンはどうしてこんな変なことを言ってるんだろう、という感じだ。
ボクは助け舟を寄こした。
「キミ、右手をあげて」
やはり何も言わない。
だが、すっと右手を天井へかざした。
おお、とクチートとヤミラミが声をあげる。
そして、何やら2匹で難しい話を始めた。
「何だよ。言葉分かってるんじゃねえか」
「質問の仕方が悪かったんだよ」
「アンタ、何か飲みたいものはある? それともお腹がすいた?」
クチートがピカチュウへ問いかける。
どういうわけか、その表情はつまらなそうだ。
「……」
黄色と黒の耳を揺らしながら、無言で首を横に振る。
「いらないってことはねえだろ。おいリオル、そのホットミルクあげろよ」
「わざわざ飲みさしをあげる必要ないと思うよ?」
「それもそうだな。新しいのもらってくるわ」
そう言いながら医務室を飛び出す。
考えるよりも先に体が動く力技担当。
ニドリーノがいた場所から、ピカチュウへ視線を戻す。
顔のすぐ前にピカチュウの顔があって、ビクッとした。
「ど、どうしたの」
ヤミラミみたいな口調になる。
ピカチュウは黙って、ボクの身体に顔を近づけた。
鼻を震わせ、匂いを嗅いでいるようだ。
「……ミ」
「?」
「……アタシを背負ってたのは、キミ?」
背後でまたヤミラミのヒステリックな声。
ひどく興奮している様子だけど、それに答えるクチートの声は落ち着いていた。
「早く答えてあげなさい」
促される。
「う、うん。ボクがキミをここに連れてきた」
「……そうなんだ」
「うん」
「……」
「……」
ピカチュウはまた無言になった。
黒く深い瞳がボクの視線を捕らえる。
意識の主導権を握られたように、ボクは目を動かせなかった。
「アンタ達、何してんの」
「め、目と目があう、って、や、やつかな?」
2匹の言葉で我に返る。
「別にそういうわけじゃないよ」
「モーモーホットミルク、お届けだぜえ!」
呼吸が荒いニドリーノの登場――全速力で走ってきたんだろう。
「何かその子について分かったか、リオル?」
「いや、特には」
「リオル、っていうんだ」
「うん。キミは?」
名前を分かってても、聞き返すのが礼儀だ。
「ピカチュウ」
「よろしく、ピカチュウ」
ボクは手を差し出す。
ピカチュウが握手に応えた。
彼女の手は、やっぱりこっちまで凍えそうなほど冷たかった。
「アタシはクチート。この場所で一番偉いポケモンよ」
クチート独自の格言――『医療担当は神様』。
「ア、アタチはヤミラミ。アナタのこ、こと、色々知りたいなあ」
「オレはニドリーノ! 『毒びたしのニド姉弟』とはオレのことだぜ」
ほら飲みな、とニドリーノがホットミルクをピカチュウに渡す。
彼女はボクの匂いを嗅いだ時のように、すんすんと鼻を鳴らし、飲み口に口をつける。
「! アチチ」
「熱かったか?」
「身体が冷えてるからかもしれないわね」
「寒いときに飲むから美味いんじゃねえか」
自分の価値観が絶対のニド先輩。
「無理して飲まなくてもいいよ」
ボクがそう言うと、ピカチュウは首を縦に振った。