それはまんまると太った月が空に浮かぶ、明るい夜の出来事だった。
人里から遥か遠くまで離れ、うっそうとおい茂る森のさらに奥へ進んだところに、レジギガスもちっぽけに見えるほどの巨木が並ぶ名もなき大樹海が広がっていた。
あるとき、淡い新緑の光の波とともに、森がわずかに震動した。ほとんどのポケモンたちが気にも留めないほど小さかったが、過敏症の節がある1匹のヨルノズクには、そうではなかった。ホウホウと鳴きながら、幹に空いた樹洞からひょっこりと顔を出した。ヨルノズクは大きく目を見開いて、しきりに顔を傾けた。何かが近づいてきている。静寂の森を賑わせている何かが。
同じ幹の樹洞からアパートの住民たちが次々とろりと眠そうな顔を出す。地を踏み荒らす慌ただしい足音が、すぐそこまで迫ってきていた。
ところがせっかく気になって顔を出したのに、とうとう安眠を妨げた張本人が巨木の間から現れると、住民たちは一斉に幹の奥へと引っ込んでしまった。
静かだった樹海を慌ただしく駆け抜ける少年は、夜の森を進むにしてはあまりに軽装だった。服とズボンはひとつながりで、長い袖に長い丈、黒地の生地に何本か白いラインが走っている。左胸には金色の三角形に赤白のボールを重ねたデザインのバッジが輝いていた。腰回りには、ベルトに固定しているホルスターに丸みを帯びた銀色の拳銃を差していた。
やわらかい灰色の髪を風圧で逆立てながら、童顔の少年は森中に響き渡るほどの大声で叫んだ。
「そこのセレビィ、止まりなさい!!」
「いやだね! 止まれと言われて誰が止まるもんか!」
視界を遮る木々の向こうから返ってきた声は、憎たらしく挑発する姿が目に浮かぶようだった。
ここで逃がしてたまるものか。後にも退けない少年は、乾いた舌を鳴らして、引き抜いた拳銃を握りしめた。
不意に、少年のわずか頭上をひとつの影がビュンと通りすぎた。四足の獣、らくだ色の体毛、地を駆ける姿は風のようなルガルガンだ。速度を少年に合わせて横に並ぶと、ちらりと横目で見やり、言った。
「チェイス、俺が回り込んで奴を足止めする。奴を撃て!」
言われた途端、少年――チェイスの唇がキュッと固く閉じた。
射撃の訓練でもなく、現場に出てこんなに早く誰かを撃つことになるなんて。きっとチャンスはそう多くない、ちゃんと一発で仕留められるだろうか。
いくつかの不安が一瞬で通りすぎた後、チェイスは決意をこめて頷いた。
「頼んだよ!」
よし、任せておけ。ルガルガンは、期待通りの返事が返ってきたことに満足した。
一度力強く地面を蹴ると、またたく間に彼の姿は見えなくなった。高層ビル何十階分とある高さの巨木の枝に颯爽と飛び乗って、ルガルガンは枝から枝へと移っていく。持ち前の《鋭い目》を凝らして、真下に照準を合わせた。
離れた敵の姿は米粒のように小さいうえ、頼れる光は月明かりしかない。これだけ悪条件が揃っていても、ルガルガンの目はごまかされない。木と木の間からわずかに見える点のように小さな獲物を、しかと捉えた。
「アオォォーッ!」
狩りは一瞬だった。
ルガルガンが月にむかって吠えた途端、その身が矢のごとく一直線に急降下した。風を切りさいて、獲物が狩人の接近に勘づいた頃には、それが抱えていたお宝ごと獲物の体は地面とルガルガンの爪との間で板挟みになっていた。
「うわっ!?」
突然自由を奪われた淡い緑色の妖精――セレビィは叫び、爪から逃れようと必死にもがいた。いくら小さな体とはいえ、超能力も駆使しての抵抗にはルガルガンも抑えきれず、弾かれて爪を離してしまった。
その拍子に、それまでセレビィが全身で抱えていた宝玉がその身を離れ、ころころと地面に転がり落ちた。
「あっ!」
浮かぶセレビィと駆けつけたチェイスが、黒い輝きを奥に秘めた宝玉を見やって、同時に発した。
あれを奪われてはいけない!
思うことも同じだった。
「スクーティ、金剛玉が!」
立ち止まって両手で銃を構えながら、チェイスは叫んだ。
その声に応えたかったが、ルガルガン――スクーティは地に両足をつけて姿勢を低めに構えたまま動かなかった。セレビィがどう動くか、彼には判断がつかなかったのだ。
「相棒がああ言ってるよ、取りに行けば?」
スクーティとチェイスに手を向けながら、セレビィはせせら笑って挑発した。
じろりとセレビィを睨んだまま、スクーティは言った。
「お前に背中は見せたくないな」
セレビィとスクーティとの間で睨みあいが続き、両者の間で火花がばちばちと散った。
湿った手で銃を握るチェイスは、引き金をひくタイミングを待った。今はまだダメだ。だけどすぐにでも引き金をひいて、息苦しい駆け引きを終わりにしたい。そんな欲求をおさえるのは大変だ。なるべく音を立てないように、静かに息を吸った。
誰が最初に動いて注目を集めるか。息も詰まるチキンレースを制したのは、セレビィだった。
チェイスが息を吸って、緊張をわずかにゆるめた隙を、セレビィが狙い撃った。くいっと指先を動かすと、チェイスの足元の草木が急速に伸びていき、あっという間に彼の体を絡めとった。
「何だこれ!?」
思わずそれに触れまいと両手をあげて相棒が叫んでいる反対側で、スクーティは地面を蹴った。そして、セレビィに突進した。
だが、セレビィはチェイスにしかける傍ら、スクーティへの注意を怠ってはいなかった。彼に向けていた手で、宙に小さな円を描く。すると、スクーティの体当たりがセレビィに届く寸前で、彼の体は空中でピタリと止まってしまった。
「くそったれ、離しやがれ!」
「ざまみろ。このおマヌけさん」
牙をむいて唸るスクーティに、セレビィはあっかんべーをして、ゆうゆうと横をすり抜けていった。
そして転がっていた宝玉を大事そうに全身で抱きかかえると、目を閉じ、体から淡い新緑の光を発し始めた。光の波が、セレビィを中心に一定のリズムで木々や地面、スクーティたちの体、空間を伝って森中に広がっていく。
「チェイス、奴が時渡りをするぞ!」
いまだに体の自由がきかないスクーティは、最後の希望を相棒に託して叫んだ。
ここで失敗はできないんだ、僕がやらなきゃ。顔から幼さが消えて、チェイスは気を引きしめて口を結んだ。
蔦や雑草が絡まって身動きがとれない。だが、とっさに両手を高く挙げたおかげで、植物は手の先まで支配を伸ばしていない。
手の先にある銃と、足元にある植物の根っこを交互に見て、チェイスは銃の角度を調節した。外せば、自分の足を撃つことになる。『殺傷モード』ではないから死にはしないが、のたうちまわるほど痛いだろう。アカデミー時代の訓練で味わった、神経をちくちく針で刺されたような痛みが傷口から全身に広がっていく『麻痺モード』の威力を思い出して、チェイスは唾を呑んだ。
もう時間がない。セレビィは今にも『時渡り』を敢行するだろう。
チェイスはぎゅっと目をつむり、引き金を引いた。一瞬、白い閃光が走って、チェイスにまとわりついていた蔦は根っこを焼き切られた。力をなくしたように、だらりと地面に垂れ落ちた。
やった! 足は痛くないし、体が一気に軽くなったぞ!
笑顔もつかの間、チェイスはすかさずセレビィに向けて銃を構えた。
「止まれーっ!」
勧告は意味をなしていなかった。
既に『時渡り』はセレビィの制御を離れ、彼自身でも止められなくなっていた。あとほんの数秒で時を超える。そんなときに、セレビィは自分に銃を向けられていることに気がついた。
もう技や策に意識を割いている暇はなかった。間に合わないし、逃げれば撃たれる。それならばと、セレビィは反射的にチェイスの懐めがけて突っ込んだ。
チェイスは再び、銃を撃った。
白い閃光が銃の先から新緑の光を突っ切って、セレビィを襲った。だが弾は彼に当たることなく、硬いものに当たったような音を立ててはじけた。
とたんに、セレビィの抱えていた宝玉が異様な高音を立てて、まっ白い輝きを放ち始めた。セレビィの時間エネルギーと、宝玉の時間エネルギーが溶けあい、混じりあい、そして誰も予期しなかった出来事が起こった。
目と耳を覆う音と光はすぐに晴れて、もとの静かで暗い夜が森に戻ってきた。
ようやく《サイコキネシス》の拘束が解かれたスクーティは、いったん地面に立って姿勢を低く構えながら、しょぼしょぼと目を細めて辺りを見回す。いくら月明かりがあっても、先ほどの光のおかげで視界はまっ暗なままだ。今は音に頼るしかなかったが、頼りの音は何も聞こえてこない。
「おい……チェイス、どこだ?」
だんだんと視界が開けてきても、相棒の姿はどこにも見当たらなかった。相棒どころか、宝玉とセレビィもいない。
時渡りしたのか? 彼はどこにいった? 宝玉はどうなった? セレビィはまんまと逃げたのか?
頭の中をいくつかの疑問が駆け巡っていく。次第にいたたまれなくなって、不安や焦燥感を吹き飛ばすために、スクーティは森中に響きわたるほどの大声で月に向かって叫んだ。
「チェイス!!」
葉を揺らす呼び声に返事が返ってくることはなかった。少なくとも、今はまだ虚しく響き渡るだけだった。
やがて、この日の事が別の大きな事件へ繋がっていくことを、スクーティは知る由もない。
時の歯車は、神の手を離れて巡り始めた。たとえ結末がどのようなものであっても、無限にも思えるような事象の連鎖を繋ぐため、時計の針は刻々と時を刻み続けていくだろう……。