Page 7 : 恐怖

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この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください

 どれだけの距離を全力で走ってきたのだろうか。もうとっくの昔に体力は限界に達している。大きく開けた口での呼吸音は掠れている。足が重い。けれど走るしかない。ラーナーは止めようもない涙を空中に零しながら必死に夜道を走る。
 左に入る横道がぼやけた視界の中に入り、ラーナーはその曲がり角を覗きこんだが、歪んだ顔はさっと暗くなる。
 目に入ったのは、細い道の真ん中、赤い眼を光らせた何か。体格から察するに人間ではなく、明らかに凶暴的だった。
 ラーナーはもう一度走り始めた。曲がらず、だ。
 先程からその繰り返しだった。
 人気のあるウォルタ中心地に向かうにはいくつか道を曲がらなくてはならない。が、彼女の行く先々の角の向こうにはいつもそれが待ち伏せている。赤い眼をした獣だ。彼女の瞳には敵と映っている。眼光が尋常ではない、獲物を狩ろうとする獰猛な獣の眼の他ならないからだ。
 ラーナーは逃走に必死で気が付いていないが、一方的に人通りの無い、ウォルタの郊外地へと誘い込まれていた。
 明かりは夜空の月と星の灯ししかなく、足元は殆ど見えない。周りには高くそびえる今にも崩れそうな木造建築。現在のウォルタ内ではほとんど見ない木の設計は、貧困地帯の象徴でもあった。風に押されては不気味な音を立てており、ホラーハウスが陳列しているかのようだ。建物に人が住んでいるという気配はない。廃墟が立ち並ぶような町は彼女の恐怖心を更に仰ぐが、他に行き場所も無い。
 涙がぼろぼろと落ちる。止まらない。掻き回された濁流のような心境だった。
 誰でも良かった。とにかく助けてほしい。今すぐに。けれど叫ぶほどの力は彼女には残されていない。大きな声をあげればそれと同時に体内のものを全て吐きだしてしまいそうだ。
「あっ」
 声が零れた。と同時に前に倒れる。引きずるような走りをしていた足を道の亀裂に引っ掛けたのだ。まるで誰かに思いきり突き飛ばされたかのように大袈裟な勢いで地面に転がる。地に打たれた痛みが全身を襲い、やがて静止した。
 彼女の全身が瞬く間に脱力感に満ちていく。
 動けなかった。走ろうとも、立ち上がろうとも思えなかった。頭の先が痺れ、炎を纏っているかのように全身が熱い。息苦しいままに咳込めば唾液の塊が跳び出した。
 沈黙。
 音はない。暫く息を潜めて耳を立てていたが、追ってくる気配も感じなかった。逃げ切ったのだろうか。ラーナーは息遣いは荒いまま静かに安堵した。きっとこれは夢。途轍もなく悪い夢だ。そう考えるしかなかった。彼女は先程の光景を振り払わんとするように無理矢理に淡い期待を抱く。セルドのところに戻らなきゃ。冗談やめてよって言わないと。そして、笑い飛ばさなきゃ。









「やったー逃げ切れたー……なあんて、思った?」
 後方からだった。
 ラーナーの心臓が大きく跳ね、咄嗟に起き上がり振り返った。
 溢れる涙と汗で顔が崩れた彼女を見て、男はにやりと笑う。手にはナイフ。右手で遊んでいるように回し危なっかしいのに、妙に安定しており慣れ親しんだ動きであった。弟を刺した凶器の矛先が自分に向いていることをラーナーは肌で理解している。
 笑っているが、殺気に溺れている。
 恐ろしさに全身の震えが止まらなくなる。
 逃げなければ。残り僅かしかない力を振り絞り、彼女は身を捩った。
「逃げようったって無駄だ――壁を張った。もう飽きちゃったんでね」
 先手を打つ一言にラーナーは静止した。恐る恐る振り向いた彼女の瞳に、笑顔の男が映った。
「壁……」
「そうそう。まあバリヤードの力を利用した……って理屈なんだけどさ」
 男は笑いながら言い、一歩、また一歩とラーナーへ近づいた。長い息を吐く。震え、喜びを抑えきれていないような歓喜に似た形をしている。
「たまらないな」
 火照った表情に狂気を見た。
 ラーナーの額から冷汗が噴き出す。身体が動かなくなっていた。脳は動けと命令しているはずだが、ぴくりとも動かない。急に全身が麻痺したようだった。
「金縛りのされ心地、どう」
 男はスキップをしているような軽やかな足取りでラーナーに近づき、そっと見下ろす。 
「君は運が良い。この世に生きてて、それをされながら逝く奴なんてそうそういない」
 つい先程まで激しく動いていた彼女の肩は止まっていた。呼吸はできる。が、荒い。震えて、口の中に唾液がたまっていく。単純に身体が動かない、不気味で焦れったい感覚に身体の芯が冷めていく。
 男は被っていた帽子を外していた。そのおかげで、容姿がよくわかる。あちこちに跳ねた黒髪。汚れた瞳も黒だった。宅配便の専用服の代わりに黒い上着を羽織っていた。前のファスナーは開けられていて、その中から灰色のインナーを着ている。見た目は20代の半ば、というところか。肌の色は明るく若々しさが潤っているが、醜悪な顔つきや容姿に執着していないのであろう雑な雰囲気が若さを殺しているようにも思われた。
 極めつけは顔に残った返り血だ。
 セルドのものだろう。
 彼は、セルドを、刺した。
 ラーナーは刺された瞬間の痛みについて想像を過ぎらせようとして、恐ろしくてやめた。
「怖がることはない。すぐ終わる。一瞬で弟くんのところへ連れて行ってあげよう」
「――ッ!」
 ラーナーは噛みつくように鋭く睨みつけた。
「なんで……なんでセルドを! どうしてこんなことするの!! あたしたちが……あたしたちが一体何をしたっていうの!?」
 声の限り叫んでも焦る空虚が胸を支配した。
 涙が滝のように止まることなく、彼女の瞳から零れ落ちていた。それでも体は動かない。焦がれる想いが溢れんばかりに満たされる。
 その時、突然男はラーナーの目前にナイフを突き出した。月明かりに刀身が鈍く光り、ラーナーはしゃくり上げ、怖気づく。切っ先と彼女の顔との距離は目と鼻の先だった。ナイフはそのままゆらゆらと見せびらかすように揺れる。
「知る必要はない。君は誰に見られることもなくここで死ぬ――はなからそういう運命だった、それだけさ」
 刃の先がラーナーの透きとおるような柔らかい頬に当たる。尖った感覚に息を詰めた。静かに刃が横に動く。途端、鋭い痛みが走り咄嗟に目を瞑る。薄い傷が頬に軌跡を残し、ナイフの通った道を鮮明に浮かび上がらせていた。やや遅れて細い線から赤い血が滲む。
 男はナイフを持っていない左手で新鮮な頬の傷をなぞる。彼の皮膚は無骨で固く、冷たい。ラーナーにはその肉感が妙に浮かび上がるように感じられた。狂人に触れられる恐ろしさは同時にたまらなく気持ちが悪かった。
 彼の親指に付着した血が、彼女の血であることは言うまでもない。震え上がるような笑みが男から零れた。快楽以外の何物でもない。男はそっと親指の先についた血を舌で舐める。
 暗闇、建物無き場所から覗く夜空、月を背に彼の眼は意気揚揚と光っているようにも見えた。
 ラーナーの心に、一層激しく警笛が鳴り始めた。それは彼女の中の、猛烈な危険信号。必死に体を動かそうとするが、激しく全身脈打とうとも、抵抗は虚しく空回るばかりだ。代わりに抑えきれない感情に比例して、声ばかりが大きくなる。
「動け……動いてよおっ……!」
 自分の体ではないようだった。心だけが残ってしまった人形のようだった。
「さて。そろそろこの世への別れの挨拶もすんだかな」
 男はそう言い、刃の先をラーナーの胸に真っ直ぐ向けた。
 いよいよ、と思っても、彼女は諦めきれなかった。逃げたい、逃げなきゃ、想いだけが向こう側へと独り突っ走っていく。
 男の口元が醜悪に裂けた。
「さよなら、ラーナー・クレアライト。……恨むなら、君の母と父を恨むがいい」
「――え?」
 彼の口から飛び出した思いがけない単語に、気を取られた。
 と同時に、彼の右手が動く。狙っているのは彼女の心臓。ラーナーは瞬時に強く目を閉じた。思考は何もかも爆発して吹き飛んだ。


















 数秒、経った。
 彼女は何も感じなかった。痛みは、ない。音もない。
 これが死というものなら、なんとあっけないものだろう。
 恐る恐る瞼を開いた。そこにはさっきと同じ光景があった。ただ、時間が止まったように、ナイフは彼女の胸の寸前で、固まっていた。しかし、少し振動している。微妙だが、細やかに。
 そして突如彼女の体は軽くなり、かと思えばすぐに重くなって、地に落ちた。
 何が起こったのか解らなかった。竦みきって硬直した身体だが、腕は何事もなかったように持ち上がった。気付いてみれば自由に動かせるようになっている。驚きの視線を頭上の男に向ける。
 対する男は無言だった。視線は自分の右腕に向けられていた。白いゴムで出来たような細いロープが彼の腕を縛っていた。
 ぴんと張られたロープの先を視線がなぞる。それに合わせるように、ラーナーも目で追った。暗闇の中にロープは溶けている。しかし月明かりでその行方は微かながら分かる。男は目を細め、抵抗するように右腕を引いた。
 繋がれたロープに引っ張られ、足音が響き、月明かりに照らされて路地の闇の中から人が現れる。
 ラーナーは息を詰めた。見覚えのある人物の姿がぼやけた視界に映し出される。
 帽子の下から覗く長い前髪とその下で光る瞳。朝に着ていた上着は無く、灰色の長袖のTシャツと真っ黒なズボンを身に纏っている。
 特徴的な深緑は夜闇では濡れた漆黒のようだった。
 思い出される。忘れるはずのない記憶だ。
 その瞳と今の瞳の光は違った。冷たい闇が渦巻いているような目。あの時の瞳に少しでも優しさが宿っていたことに彼女は気付かされた。
 吸い込まれそうになる。
 純然たる殺意だった。
 触れれば、瞬時に殺されると直感した。

「……間に合った」

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