Page 44 : 誘い

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この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください

「単刀直入に言うと、ウチに来てほしいのよ」
 コーヒーを一口飲んだ後に彼女はそう言い放った。ウチ、というのは言うまでも無いが黒の団のことだ。当然予想していなかったことにクロは眉間に皺を寄せて不審な目を彼女に向ける。冗談だろうと言い放ちたくなったが、張り付いた微笑みから真意を汲み取ることはできない。
「お前らは俺みたいな奴は殺しまわろうとしているんじゃなかったか」
「周りに人がいる中でそんな物騒な言葉使うと怪しまれるわよ」
「さっき毒ガスだのなんだの言ったくせに、よく言える」
 ふん、と女性は鼻を鳴らす。咄嗟に出てきた皮肉は大した威力をもたらさなかったようだ。
「状況が変わったのよ。私としては今すぐに来てくれたら最高なんだけど」
「……」
 クロは脳内を積極的に回転させる。勿論このような誘いをクロが受けられるはずはないが、相手は爆弾のスイッチを持っているようなものだ。うまく立ち回らなければラーナーやソフィ、ミアは勿論、ホクシアに押し寄せている多くの人間やポケモン達にも重大な被害が拡がる。安易に返事をすることはできない。
 時間を稼ぐしかない。その間に圭がどう動くか、アメモースがどう動くか。クロが今自分でどうにかできる領域ではない。孤独な戦いを続けていく他ないのだ。背筋を少し伸ばす。
「そんな要求、らしくない」
 女性は背もたれに体を預けて微笑を保つ。
「君にとってもそう悪い話じゃないわ。旅、辛いんじゃないの。ウォルタやバハロでの件、聞いたわよ。あんな目に合うのはもうまっぴらじゃない?」
「だから黒の団に入れと」
「安心して。丁寧にもてなすわ」
「殺さない、と」
「勿論」
「どうせ実験台に使うつもりだろう」
 ちくりと言いやってみると、女性はあははと笑って誤魔化す。
「命の保証はする。けどこっちの命令には従ってもらうわ」
「……命と引き換えに自由を差し出せと」
「クサくて恰好いい言い回しをしちゃって」
「うるさい」
「ねえ」女性は頬杖をついた。「自由なんてあったの、あなたの旅に」
 思わず息を止めた。保っていたラインをひょいと簡単に越えられる。冷や汗が滲むのを悟られないよう、表情は変えずにすぐに口を開く。
「当たり前のことを。何を唐突に」
「なら言い方を変えましょう。君の自由の定義って何?」
「定義?」
「だからさ……そうだねえ、ただ町を渡り歩くことは自由なの? 私達を窺う状態は自由なの? 無力な人に足を引っ張られることは自由なの?」
 繰り出される問いに対して即答できずクロは唇を噛む。依然として相手の真意は見えてこない。
「何が言いたい」
「自由なんて簡単に言える台詞じゃないのよ」
「……」
「この国自体、そう。首都に集中した異常な程の経済発展。誰もが金よ金よと湧き上がってんの。貧困層や僻地は捨てられ、でも縛られる。一見李国より裕福に見えて、大して変わらない。自由なんて無い。希望も無い。君も旅をしてきたんなら、分かるでしょ」
 冷静な目で行われる真剣ながらも淡白な語りにクロは首を縦にも横にも振らない。今まで見てきた光景が彼の記憶に佇む。今日パンを盗んだ少年の姿も勿論、その一部になっている。
 どこも同じだとそう思い続けてきた。
「そんな話、関係ないはず」
「言ったでしょ。そうやって切り捨てるから成長できない。要は、どこに行こうと自由なんて無いってこと」
「……だからって、黒の団に入ったところで更に縛られるだけだ。なんのメリットがある」
「メリットは命が助かるところよ」
「どうだか」
「命は唯一の自分のものでしょ。大切にしたいんじゃない。どうせ縛られるなら、生きる確率が高い方が良いんじゃなくて?」
 女性はコーヒーを一気に飲みほすと席をゆっくりと立ち上がり、身構えたクロの隣に立つ。町の明かりが逆光となって、影となったその表情は相も変わらず笑っている。
「私には君が必要なんだ」
 はっきりとした物言いで言う。脳内の危険信号が鳴り響き、それに従い火閃の入ったポーチに手をかけようとしたクロの右手を彼女は瞬時に掴んだ。二人の間がより小さくなる。ほぼ目と鼻の先に存在するその顔にクロはたじろぐ。くすぐる香水の匂い。化粧。大人びた端正な顔つき。上がる口元。笑わない瞳。息を呑み、動けなくなる。それでも必死に抵抗を表すように体を強張らせる。
「ここまで言ってるのにさ」
 語尾が消えた瞬間クロは表情を一気に濁らせる。右手に走る鋭い痛み。叫びは声にならない。捻りつぶさんとばかりに彼女の手は力を更に加えていく。体は蛇に睨まれているように動かなかった。
「偉いね。声をあげないんだね」
「……ッるさい!」
「それとも、声のあげ方を知らないの?」
 軋む骨に、クロは耐えきれず悲鳴を漏らした。
「張りぼてのくせに自由を謳うなんて、笑わせないでよ」
 骨の折れた音が小さく響いた直後、クロのポーチの中から白い光が走ったかと思うと、そのまま女性を突き飛ばした。
 鮮やかな炎が夜の町に揺らめき、白い体毛は美しく輝く。しかしその瞳はおどけたような可愛らしさを捨て、厳しく鋭い。ポニータはクロを庇うように彼の前に凛と立つ。流石に突然の炎の白馬の登場に周囲はざわめき注目する。倒された女性は立ち上がって落ち着いた表情で汚れた部分を手で払う。
 テーブル上にあったクロの分のコーヒーがひっくり返り、褐色の水滴が地面に落ちる。
「ポニータ……」
 クロの口からは呆気にとられた声しか出てこなかった。ポニータはちらとクロの方に視線をやる。主人の危機にボールを跳び出した救世主は、緊張の糸を張ったまままた女性に視線を戻す。クロは右手の鈍痛に歪んだまま漸く立ち上がった。自分の背にあるラーナーを始めとした姿が頭に浮かぶ。もう、何が起こるか分からない。
 けれどポニータにとっては、誰よりクロが大切なだけ。守るために、立ち上がったのみ。
 突然ポニータは走り出した。クロは名前を叫んだ。けれどその足は止まらない。女性はさすがに今までの余裕を持った表情からは一転する。咄嗟に取り出したボールの中から跳び出した白と赤の猫イタチ。体毛を逆立てたザングースは即座に爪を硬化させ、炎を纏って突進してくるポニータに対して技を繰り出す。張り裂ける爆発音と散る炎。人々のつんざく悲鳴が空気を切り裂く。フレアドライブをブレイククローで受け止めたザングースだったが、ポニータの力づくの突進に少しずつ後ずさる。
「電光石火で潜りこめ!」
 女性の鋭利な命令が走る。瞬間、ザングースは体勢を低くしポニータの懐に入る。そのまま下から繰り出される頭突きにポニータは簡単に振り上げられてしまった。しかしポニータは喉から駆けあがってきた炎を一気に放出、それはザングースに噛みつく。
 辺りにあったパラソルに火が移り、彼等を中心に瞬く間に巨大広場は炎のフィールドへと化していく。混乱の渦中に巻き込まれた一般人は血相を変えて場を全力で逃げていった。大きくなった騒ぎは仕方が無いが、これで思い切り戦える場が整う。
 猫イタチは炎を両の手で切り裂き外界へと飛び出し、一度ポニータに対し間合いをとる。自身に残る火種を払うように地面に叩きつけんとばかりに自身を激しく振る。熱風の音に負けじと威嚇の鋭い声が唸った。凄まじい迫力にポニータよりもクロの方が怖気づいてしまいそうになる。
「進化もしていない仔馬なのにやるね」熱風で彼女の髪は乱暴に踊っていた。「そうやって調子乗るの、うざいよ」
 クロは目の前に広がっていく光景に息を呑む。彼女の懐から次々に跳び出していく光は全部で七つ。出てきたのは全てザングースだ。
 総計八という数、ザングースという種族。当然降ってくる既視感。ウォルタで対峙した黒の団の男が繰り出したものとまったく同じだ。当時はポニータの強力な炎の渦で一気に片付けたが、今目の前に居るザングースの様子からして当時とは力量が段違いだ。それが、八匹も。圧倒的な数的不利に加え、どれもこれも目の色が血走り、戦いは始まったばかりだというのにテンションは既に最高潮に達していた。それぞれが放つ威嚇に、さすがのポニータも動きを止める。
 クロは舌を打つ。右手は痛んだままだ。しかしそんなことを嘆いている暇など無い。
「火閃!」
 利き手ではない左手に円筒を持ち、合図信号を唱えた。両から跳び出す刃は炎を身に纏う。逃げられないなら、突破口を作りだすしかない。クロは重苦しい空気を吸い、集中力を高める。掻き乱され混乱する心を鎮める。
「あははははっ」
 異様な威圧感で満たされた場に不釣り合いな小さな笑い声が広がる。炎の揺らめく中で、彼女は何故か笑っていた。クロにとっては雑音の他無く、火閃を構えて深呼吸をする。眼光が冷たく鋭く研ぎ澄まされていく。
「火閃か、成程ね。――行け」
 恐ろしいほど滑らかな簡潔な命令で見えぬ鎖から解き放たれた八匹の白き獣は、奇声と共に一直線にクロとポニータへと走り出した。
「切り抜けるぞ!」
 叫び声にポニータは頷いた。

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