第5話 北風と太陽

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「いや……もうやめて!私……ちゃんと言うこと聞くから……」
「本当……?」


バトルダイスの出口で、ジェムは再び会った少年――ダイバに泣きながら許しを乞っていた。彼女の手持ちはすでに全員戦闘不能になり、目の前で相棒のラティアスがメガメタグロスの4つの拳に殴られ続けている。既に瀕死になっているにも関わらず、メガメタグロスは甚振るのをやめない。どうしてこうなってしまったのか。それはジェムがブレーンのゴコウに敗北してバトルダイスを出た直後のことだった――




施設の外に出ると、自分をメタグロスで殴った少年、ダイバが待ち構えていた。彼は相変わらず帽子を目深に被ってジェムの目を見ずにこう言う。

「考えたんだけど……君、僕の代わりに挑んでくるのを追い返してくれない?雑魚でも群がられると面倒くさいからさ」
「……なんで私がそんなことしなきゃいけないの」

敗北し、まだ顔の赤いジェムは憮然としてそう返事をした。今自分たちはこの島に集まったトレーナーから狙われる立場であり、ジェムも挑んでくる相手を退けている。お互い難儀な立場ではあるが、だからと言って自分をポケモンで殴り飛ばすような奴に協力するほどジェムは聖女ではない。

「……さっきのバトル見てたよ。随分な負け方だったね。あの程度の実力じゃ、パパの集めたブレーン達には勝てっこないよ」

バトルフロンティアでの勝負は町のいたるところに設置されたモニターで観戦出来るようになっている。ましてやブレーンとのバトルとなれば放映はされるだろう。事実かもしれないが、言い方にむっとするジェム。

「だから……言うこと聞いてくれたら、僕がアドバイスしてあげてもいいよ」

静かだが傲慢な物言い。自分の方が上だと確信している態度に、ジェムは反論する。

「じゃああなたは私より――ブレーンより強いの?」
「……はいこれ。ファクトリーシンボル」

ダイバは無言で、ポケットに入れた歯車を象ったバッジを見せる。それはブレーンに勝った証であるフロンティアシンボルだった。ダイバがすでに施設の一つをクリアした証だ。

「ブレーンには僕のパパやママもいるから、全員より強いとは言えないけど……少なくとも君よりは強いよ。なんなら、バトルで証明しようか。それで僕が勝ったら、言うことを聞いてもらう。もし君が勝てたら、もう関わらないよ」
「本当に……『ポケモンバトル』で勝負するんでしょうね?」
「あれはいきなり引っ叩く君が悪いんだよ……?」

メタグロスで殴ったことに悪びれもしないダイバ。そして彼は傍に控えさせていたサーナイトを前に出す。

「わかった、勝負しましょう。……絶対負けないんだから。出てきて、クー」
「さっき負けたばかりでよく言うよ……」

二人のバトルが始まる。だがその内容は酷いものだった。強力なポケモンとメガシンカを使いこなすダイバに、ジェムはほとんど手も足もでない。ラティアスのミストボールさえも、メタグロスの特性『クリアボディ』の前には無力で、あっさりと組み伏せられ甚振られていた。

ダイバは膝をつき泣きながら許しを乞うジェムを帽子の陰から見下す。

「……何がお父様の娘だ。何が絶対負けないだ」

そして彼女を心を嬲るように言った。


「君、ポケモンバトルの才能ないよ」
「――――!!」


その言葉に、ジェムが何も言い返せずに泣き崩れる。周囲のトレーナー達に哀れむような眼を向けられているのがとてつもなく惨めに感じた。

(私は、お父様の娘に相応しい、皆に尊敬されるトレーナーでなきゃいけないのに……)

ジェムの心が真っ黒になって、瞳の輝きがくすんでいく。自分の弱さと情けなさに絶望しかけた、その時だった。


「そこの少年、女の子をいじめるのは感心しませんよ?」


二人の間に割って入ったのは肩までかかる黒髪の一部だけを赤と白で染めた三十歳前後、長身痩躯の男性だった。となりにはイカをひっくり返したようなポケモン、カラマネロを連れている。

「何君、邪魔なんだけど……」
「邪魔しに来たからね。少年も女の子と『ポケモンバトル』をすると約束したのでしょう?今少年がやっているのはバトルではなく暴力です。それはいけません」
「うるさいよ……メタグロス、バレットパンチ」

露骨に不機嫌さを現し攻撃を命じるダイバ。だがメタグロスは動かない。

「私は争いを望みません。――というわけで、君たちのポケモンには催眠術をかけさせてもらいました。カラマネロの催眠術はポケモンの中でもトップクラス。一度かかればなかなか起きませんよ」
「……」

気づけばダイバの隣のサーナイトまでが眠ってしまっている。ボールに戻して、新たにガルーラを呼び出すが、相手はただ者ではないと判断しこれ以上攻撃はしなかった。

「さ、お嬢さん。こんな暴力的な子の言うことを聞くことはありません。ひとまず、ポケモンをボールに戻してあげましょう?」

男性がジェムに呼びかける。ジェムは無言でラティアスをボールに戻した。蹲っているジェムに男性は手を差し伸べる。

「私の名前はアマノ。さあ、まずはポケモンを回復させないといけませんね。――全てのポケモンが戦闘不能とあっては一人では危険でしょう。ついてきてください」

ジェムはその手を取り、立ちあがる。何故だかこの男――アマノの言うことは、すっと心の奥に入ってきて、警戒する気が起きなかった。ダイバがジェムを冷たく吹き付ける北風なら、アマノは温かく心を照らす太陽のようだった。

(この人を見るとなんだか心が、ぽかぽかする……)

普通に考えて出会ったばかりの男にそのような気持ちを抱くのは不自然なことだったが、ジェムは沈んだ心を癒してくれるなら何でもいいと思った。アマノは、まだ歩調がおぼつかないジェムに合わせ、ゆっくりと歩いてくれている。その心遣いもまた、怖いくらい気持ちがよかった。

「……もう少しで手に入ったのに。目障りなんだよ……メガガルーラ、岩雪崩」

残されたダイバは、忌々しげにアマノを見る。追いかけたかったが、ポケモンが眠ったのを好機とトレーナー達がバトルを仕掛けてくるのでそうはいかなかった。それらを岩石の奔流で怯ませていきながら、遠ざかる二人を見ていた――




「なるほど……チャンピオンの娘らしくありたいのに上手くいかない、ですか」

ジェムはアマノの使っている部屋まで通され、ポケモンを回復してもらい落ち着いた後、ソファに座らされて彼に今の自分の状況と不甲斐なさを偽りなく話していた。彼になら、何でも話せるような気がしてしまう。部屋に入ることにも、何ら抵抗感はなかった。だがそれを疑問に思うことが出来ない。

「あの少年はあなたに才能がないなんて言いましたが、私はそんなことはないと思いますよ。ブレーンとのバトル、そしてメガシンカは素晴らしかった」
「でも私……負けちゃった」

あくまで自分の敗北が許せないジェム。傲岸な心の壁を優しく溶かすように、アマノは言う。

「いいじゃありませんか、負けても」
「え……?」
「あなたはまだ若い。確かにあなたの父親は今は無敗の絶対王者かもしれませんが、果たして昔からそうだったのでしょうか?私はそうは思いませんね」
「……でも」
「あなたには父親と同じ人々を魅せる実力がある。それは間違いないですよ。ただ――あなたは、張り詰め過ぎているのではないでしょうか?」

アマノの黒い瞳はジェムのオッドアイを見つめてゆっくりと語る。

「あなたはまだまだ不完全で歪な原石。これから研磨されてゆけば美しい輝きを得るでしょう……ですが常に自分に負荷をかけ続けていれば、宝石として完成する前に壊れてしまいます。今のあなたは壊れかかっているんですよ。少し休んで、他の事を考えた方がいい」
「……はい」

普段のジェムならそんなことはないと一蹴しただろう。チャンピオンの娘として自分を磨かなければいけないのだと。だがアマノの言う通り、今のジェムの心は限界に近かった。

「でも私……どうしたら」

だがジェムは今までずっとポケモンバトルに明け暮れてきた。それに疑問を持つことはなかったし、それを楽しんでいた。だから、他の事と言われても困ってしまう。教えを乞うジェムに、アマノはジェムの顔に手を伸ばして、唇の横をくいっと吊り上げた。


「簡単だよ。どこにでもいる女らしく――家族のこともポケモンのことも忘れて、誰かに身を委ねればいい」
「え……?」


優しいアマノの言葉に、優しさ以外の異物が混じる。それは白雪姫に渡されたリンゴのように、体に入れてしまえば二度と戻れなくなる毒だった。いや、その毒は気づいていなかっただけで既にジェムの体を回っていた。疑問の声をあげるが、否定することが出来ない。

「私が君の凝り固まった心を溶かして、私が女の子の幸せを教えてあげよう。――何も不安に思うことはない」

アマノのカラマネロが瞳を光らせる。するとジェムの頭がぼうっとしてくる。今ジェムの心の中に浮かんでいるのはアマノの言葉と……普段はバトルの闘争心へと昇華されている、少女としての欲求。

「さあ――繰り返せ。私の、アマノの言葉に不安を覚える必要はない」
「この人の言葉に、不安を覚える必要はない……」
「私の言葉に身を委ねていれば幸せだ」
「この人の言葉に身を委ねるのが、幸せ……」
「そう、お前は私の言うことを聞くのが幸せ――だからお前は、私に全てを委ねる」
「私は、この人に全てを委ねる……」

アマノの言葉がすべて正しいと錯覚してしまう。完全に今のジェムは、アマノとカラマネロの催眠術にかけられていた。

「く、くくくく……チャンピオンの血を引くものといえど、所詮は小娘か」
「……」

もはやアマノの声に、態度に先ほどまでの優しさはない。野心と征服欲に燃える一人の男がそこにいた。彼はジェムを餌を見る蛇のような眼でねめつける。

「お前には望んだとおり『チャンピオンの娘』として、私の計画の役に立ってもらう……だがその前に、少し味見をするとするか。立て、ジェム」
「……はい」

アマノはソファに座るジェムを立ち上がらせ、その顎をくい、と持ち上げる。まるで良いワインでも扱うような『物』に対する態度だが、ジェムは陶酔した表情でアマノを見つめている。若い女が自分を熱い目で見ていることはアマノの欲望を大いに満足させた。

「では、いつものように……頂こう」

ジェムの細い体に手を回して抱きしめる。ジェムの体は無抵抗にアマノに身を預けながらぼんやりとした頭でこんなことを考えていた。


(はじめてなのに、いいのかな……でも、しあわせ……たたかってつらいおもいをするより、ずっと……)


ジェムの唇が奪われようとしたその時。部屋の外で、凄まじい破壊音が鳴り響く――

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